第17話 ネズミの飼育

 左腕の包帯が皮膚に食い込む。

 ギルドの医務室。

 昨日の薬品の匂いがまだ鼻の奥に残っている。

 イヴェッタが私に背を向け棚の薬瓶を数えていた。

 その背中が止まる。


「行くのか」

「……ええ」

「毒は抜けていない。あんたの身体はまだゼノスの『残り香』に当てられている。それを奴は目印にする」

「好都合だ」


 イヴェッタが振り返る。

 その眠そうな目が私を値踏みする。

 昨日までの私ではない。

 ゼノスの毒を喰らった私を。


「あの抜け殻も連れていくか」

「害虫は生かしておく」

「そうかい。物好きだね」


 イヴェッタは机の引き出しを開けた。

 私のナイフを二本投げて寄越す。

 カイルが遺した木の柄のナイフ。

 イヴェッタがくれた銀色のナイフ。

 二つの冷たい鉄の感触。

 それを懐の木箱に収める。


「ギルドはあんたを『監視』する」

「……」

「ゼノスが王都で『巣』を作るのは御免だ。あんたが餌になるならせいぜい利用させてもらう」

「構わない」


 私は立ち上がった。

 左腕の傷が鈍く痛む。

 この痛みが私を現実に繋ぎとめている。


 ---


 隣の部屋のドアを開ける。

 石鹸の匂い。

 カイルの匂い。

 ヤツの異臭は消え失せている。

 ヤツがカイルの身体で寝台に座っていた。

 私を見てカイルの顔が歪む。

 安堵。

 あるいは所有欲。


「エリアナ! よかった無事だったか!」

 ヤツがカイルの声で叫ぶ。

「俺ずっと心配で……あの『鉄の爪』の連中何も教えてくれないんだ」

「……」

「あの後どうなったんだ。俺の力が暴走して……それで」


 ヤツの記憶はそこまでだ。

 自分の魂が枯渇した瞬間の。

 私は完璧なエリアナの仮面を貼り付ける。

 目に涙の膜を張る。


「……カイル」

「ああ大丈夫だ。俺が」

「怖かった」


 私はヤツの言葉を遮る。

 ヤツの寝台の縁に崩れ落ちる。

 ヤツの身体に触れない。

 床の冷たい石に膝をつく。


「カイルが倒れちゃって。私どうしようかと」

「……そうか。俺が」

 ヤツはカイルの手で自分の額を覆った。

 ヤツの「物語」が修正されていく。

「俺がまたお前を守ったんだな」


 違う。

 お前はただの抜け殻だ。

 私がヤツの袖を引く。

 ヤツの肌に触れない。

 カイルの寝間着の布だけを掴む。


「……帰りましょう。カイル。私たちの、宿に」

「……ああ。そうだな」


 ヤツが立ち上がろうとする。

 カイルの足がもつれる。

 ヤツはカイルの顔で舌打ちした。


「……クソ。身体に力が入らねえ」

「私がいるよ」


 私は立ち上がりヤツの腕を自分の肩に回させた。

 ヤツの体重。

 カイルの体重。

 それが私にのしかかる。

 ヤツの体温が私の首筋に伝わる。

 吐き気がした。


 だが匂いがしない。

 害虫のあの生暖かい匂いが。

 石鹸の匂いだけ。

 カイルの匂いだけがする。

 それが何より不快だった。

 ヤツはカイルの聖域に完璧に擬態している。


「……すまないなエリアナ」

「ううん」


 私はヤツを支えて歩き出す。

 ギルドの酒場を横切る。

 冒険者たちの視線が突き刺さる。

 傷ついた少女。

 弱りきったその幼馴染。

 彼らの目にはそう映る。

 それでいい。


 ---


 王都の往来。

 人の川。

 ヤツの体重を支えながらその濁流を渡る。

 ヤツはもう私なしでは歩けない。

 私はヤツの「杖」だ。

 私はヤツの「檻」だ。


「……あの『鉄の爪』の奴ら」

 ヤツがカイルの喉で呟く。

「俺が動けないのをいいことに……恩着せがましく」

「……」

「力が戻れば。あんな奴ら」


 ヤツの魂は弱ってもその「傲慢」さは消えていない。

 それがヤツを生かす燃料だ。

 それでいい。

 その燃料を私が管理する。


 宿の階段を上がる。

 一段一段ヤツの身体を引きずる。

 カイルの身体が重い。

 この重みがカイルの聖域の重みだ。

 私が守るべきものの重さだ。


 部屋のドアを開ける。

 カビと埃の匂い。

 私たちの「巣」

 ヤツをカイルのベッドに放り投げる。

 ギシリと寝台が軋む。


「……水」

 ヤツがカイルの声で命令する。

 私は黙って水差しを手に取った。

 井戸で汲み直した冷たい水。

 それをコップに注ぐ。

 ヤツの口元に運ぶ。

 ヤツがカイルの口でそれを飲む。

 カイルの喉が動く。

 私がヤツを生かしている。

 私がカイルの身体を生かしている。


「……飯だ」

「待ってて」


 私は自分の荷物から固い黒パンを取り出した。

 廃坑に行く前に懐に入れたカイルの糧。

 それをヤツの前に差し出す。

 ヤツがカイルの顔でそれを見た。

 不満。

 だがヤツは弱っている。


「……これしか無いのか」

「今カイルは病人だから。これしか食べられない」

「……チッ」


 ヤツはカイルの手でそれを受け取った。

 カイルの歯でそれを齧る。

 石のように固いパン。

 ヤツはそれを必死で咀嚼する。

 生きるために。

 私の「番犬」として。


 私は自分のベッドに座った。

 ヤツから一番遠い私の聖域。

 懐の木箱を開ける。

 カイルが遺したナイフ。

 カイルが遺した罠のワイヤ。

 それをテーブルの上に並べる。

 手入れを始める。

 ナイフに油を引く布の音。

 ワイヤが擦れる金属音。

 それが部屋に響く。


「……エリアナ」

 ヤツが私を呼ぶ。

「何してるんだ」

「……お守り」


 私はヤツを見ない。

 ナイフの刃先を爪で弾く。

 冷たい音。


「私。ギルドに登録した」

「……は?」

「カイルは今動けないから。私がお金稼ぐ」

「お前が?」

 ヤツがカイルの顔で私を嘲笑う。

「ドジな癖に。何ができるってんだ」


「……だから。これ」

 私はワイヤを指で弾いた。

「カイルが教えてくれた。罠の作り方。……ネズミなら。私にも獲れる」

「……ネズミ」

「そう。ネズミ。……王都はネズミが多いから」


 私は立ち上がった。

 水差しの残りを布に含ませる。

 ヤツが汚したカイルの靴を磨き始める。

 泥とオークの血。

 それを丁寧に拭き取る。

 ヤツのためではない。

 カイルの聖域をこれ以上汚させないため。


「……ふん」

 ヤツはカイルの身体で寝転んだ。

 私に背を向ける。

「好きにしろよ。どうせすぐ泣きついてくる」

「……うん」


 私は黙々と靴を磨く。

 ヤツの寝息が聞こえ始めた。

 弱々しい不規則な呼吸。

 害虫は眠った。

 カイルの身体の中で。

 私はその寝息を監視する。

 カイルのナイフを握りしめながら。

 ゼノスがこの匂いを嗅ぎつけるその時まで。

 私の飼育は始まったばかりだ。

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