第16話 毒の体
薬品の匂い。
乾いたリネンの感触。
石鹸より強く鼻を突く液体の匂い。
意識が冷たい水底から浮上する。
喉が焼けている。
廃坑で煽った『殺鼠剤』の残り香。
胃の奥からせり上がる。
左腕に鈍い痛み。
包帯がきつく巻かれていた。
カイルのナイフもイヴェッタのナイフも無い。
「起きたかい」
低い声。
寝台の脇。
イヴェッタが椅子に座り私を見ていた。
ギルドの裏部屋。
埃っぽい医務室。
「カイルは」
「生きてるよ」
イヴェッタは窓の外に視線を投げる。
王都の騒音が壁一枚を隔てて遠い。
「あんたが毒を飲んで倒れた後『鉄の爪』を向かわせた。二人まとめて担いでこさせたよ」
「ゼノスは」
「逃げた。あんたの身体に毒を仕込まれちゃ居心地が悪かったんだろう」
イヴェッタが机の上の水差しを寄越す。
起き上がろうとする。
全身の筋肉が鉛のように重い。
毒の代償。
「だが消えてはいない。奴は『虚無』だ。また器を探す」
「……」
「あんたの身体を気に入ったかもしれないね」
水差しを掴む。
指先が震える。
左腕の痛みが走る。
冷たい水が焼けた喉を滑り落ちる。
生きている。
私の聖域はまだ汚されていない。
「あの『カイル』も別室だ」
「状態は」
「空っぽだ」
イヴェッタは乾いた木の実を齧った。
「魂を使い果たした。あんたがゼノスを引き剥がさなきゃ今頃はあの『器』ごと乗っ取られてた」
「……」
「今はただの抜け殻さ。かろうじて息をしているだけのな」
「ヤツの意識は」
廃坑の最後に聞いた声。
『エリアナ』
カイルの喉を使ったあの害虫の弱々しい声。
「さあね。器が空なら寄生虫も生きちゃいられない。あんたどうするつもりだ」
イヴェッタの目が私を射抜く。
研がれた刃物の冷たい光。
この女は私を試している。
カイルの身体をどう処分するのかと。
「カイルの身体は聖域だ」
「ほう」
「ゼノスがそれを狙うなら。害虫は生かしておく」
イヴェッタの口元がわずかに歪む。
カイルの身体は守らなくてはならない。
害虫がカイルの身体に寄生する限りゼノスはあの身体を「器」として狙い続ける。
ならば害虫はゼノスを誘き寄せるための「餌」だ。
カイルの身体という「罠」に害虫ごと閉じ込めておく。
「面白い」
イヴェッタは立ち上がった。
「隣の部屋だ。自分の目で確かめな」
---
隣の部屋。
消毒液の匂いが薄い。
代わりに私が知っている匂いがした。
カイルの使っていた石鹸の匂い。
イヴェッタがあの身体を清拭した。
ヤツの汗と酒と血の匂いが消え失せている。
寝台の上。
ヤツが眠っていた。
カイルの身体で。
カイルの寝間着で。
閉じられた瞼。
そこにはあの不快な紅い色はない。
カイルの碧い髪。
カイルの静かな寝顔。
まるで村にいた頃の。
鍛冶仕事に疲れて私の隣で眠っていたあの頃のカイル。
私の聖域がそこにあった。
だが違う。
このカイルの身体の中であの害虫がまだ生きている。
その手が私のものだったなら。
私はその頬に触れただろう。
だがその手は私のものではない。
ヤツを害虫をこの聖域から追い出すための私の手だ。
「ん」
カイルの瞼が震えた。
ゆっくりと目が開かれる。
碧い瞳。
ただそれだけ。
あの濁った紅い色はどこにもない。
ゼノスが抜けた。
あの「瑕疵」が消えている。
「……」
碧い瞳が私を捉える。
混乱。
疲弊。
そして状況を理解できないただの人間の目。
「エリアナ?」
ヤツの声。
カイルの喉を使ったヤツの乾いた声。
廃坑で聞いたあの弱々しい声と同じ。
「俺……どうなって」
「カイル」
私はヤツの言葉を遮った。
息を吸う。
完璧な「エリアナ」の仮面を貼り付ける。
目に涙の膜を張る。
「よかった……! 目が覚めたのね!」
私は寝台に駆け寄った。
ヤツの手を掴もうとしてわざとシーツを掴む。
ヤツの肌に触れない。
ヤツの体温を確かめない。
「廃坑で……! オークに襲われて!」
「オーク」
ヤツがカイルの顔で眉をひそめる。
ヤツは覚えている。
自分の「力」がオークに通用しなかったあの屈辱を。
「カイルが私を庇って……! すごい光が出て……」
「光」
「そしたらカイル倒れちゃって。怖かった!」
涙を一滴こぼす。
ヤツのカイルの寝間着の上に落とす。
ヤツの碧い瞳が揺れている。
ヤツは自分の物語が崩壊した後の記憶がない。
私の「嘘」をヤツの都合の良い「現実」として処理しようとしている。
「そうか。俺が倒れて」
「うん。でも大丈夫。ギルドの『鉄の爪』の人たちが助けに来てくれたの!」
「鉄の爪」
ヤツのカイルの顔が屈辱に歪む。
あのAランクの冒険者。
ヤツが最も見下された相手。
その相手に助けられたという「事実」
「エリアナは。怪我は」
「ううん! カイルが守ってくれたから!」
完璧な笑顔。
完璧な「ヒロイン」
ヤツはその笑顔に安堵したようにカイルの喉で息を吐いた。
「そうか」
ヤツはカイルの手を持ち上げようとした。
だがその手は震え力なくシーツに落ちた。
ヤツは自分の手を見た。
カイルの手を。
「力が」
ヤツがカイルの声で呟く。
「創生魔法」
ヤツが呼んでいたあの光。
それが使えない。
カイルの魂が枯渇している。
「大丈夫だよカイル」
私は寝台の脇にあった水差しを手に取った。
ヤツが私にさせたように。
コップに水を注ぐ。
「カイルは疲れちゃっただけ。私カイルのお世話するから」
「エリアナ」
ヤツがカイルの顔で私を見た。
その碧い瞳。
そこにはもう害虫の「傲慢」さはない。
ただ弱りきった寄生虫の怯えだけがある。
紅い「瑕疵」は消えた。
だがヤツの魂はまだそこにある。
私はコップをヤツのカイルの手に触れないようにヤツの口元に運んだ。
「ゆっくり休んで」
ヤツがカイルの口でその水を飲む。
カイルの身体が私の「管理」下で生かされていく。
ゼノスは戻ってくる。
この空っぽになったカイルの身体を狙って。
あるいは私という「毒」の器を狙って。
どちらでもいい。
害虫は弱った。
これからは私がこの害虫を「飼育」する。
カイルの身体を守るための「番犬」として。
ゼノスという本当の「敵」を駆除するための「餌」として。
私の戦場は終わっていない。
始まったばかりだ。
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