第15話 殺鼠剤
廃坑の空気が、止まった。
私の腕から滴る、赤い血。
それが、岩肌に染みを作る音だけが、響いている。
鉄の匂い。
私の「命」の匂い。
それが、カビと腐臭の澱んだ闇に、生々しく広がっていく。
カイルの顔をした、ゼノスが、私を見ていた。
黒く染まった、カイルの瞳。
その焦点が、私の腕の「傷」に、釘付けになっている。
カイルの喉が、ゴクリと鳴った。
渇望の音。
「……新鮮な、魂。……愚かな、小娘。……自ら、餌に、来たか」
ゼノスの声。
カイルの声帯を使いながら、その音は、岩肌を擦るように、低く響く。
カイルの身体が、ゆっくりと、立ち上がろうとする。
だが、膝が、震えている。
カイルの身体は、ヤツ(偽カイル)が魂を使い果たしたせいで、すでに「器」として、壊れかけている。
ゼノスは、そのカイルの手で、カイルの胸を掴んだ。
「……チッ。この、器の、残りカスめ。……まだ、抵抗するか」
黒く染まった瞳の奥。
碧い光が、ヤツの魂が、最後の抵抗を試みている。
だが、それは、風の中の蝋燭だ。
ゼノスは、私を見た。
壊れかけの、カイルの身体。
新鮮な、私の身体。
天秤が、動く。
ゼノスの、カイルの顔が、歪んだ。
カイルの口が、裂けるように、笑う。
「良いだろう。小娘。……貴様の、その、新鮮な絶望。……我が、新しい器として、喰らってやる」
「……」
「この、ゴミは、もう、いらぬ」
ゼノスが、カイルの手を、離した。
その瞬間。
カイルの身体から、「それ」が、溢れ出た。
黒い、影。
闇よりも、濃い、不定形な「虚無」
それは、カイルの口から、鼻から、目から、抜け出ていく。
カイルの身体が、糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
ドサリ、と。
石ころが、転がるような音。
カイルの聖域。
私の、すべて。
それが、廃坑の汚れた床に、ただの「肉塊」として、捨てられた。
「……エリア、ナ……?」
カイルの顔が、呟いた。
ヤツの、声。
黒い闇が消え、カイルの瞳に、わずかに、碧い光が戻っている。
ヤツの、弱々しい意識。
ヤツは、私を見ていた。
血を流す、私を。
「……なんで、お前……」
ヤツは、カイルの手を、私に伸ばそうとした。
だが、その指は、一ミリも、動かなかった。
カイルの身体は、もう、空っぽだ。
黒い影。
ゼノスの「本体」
それが、私に向かって、殺到する。
冷たい、風。
魂を、凍らせるような、絶対的な「無」
それが、私を、飲み込もうとする。
私の、左手。
懐の奥。
カイルが遺した、木箱。
その中にある、小さな、遮光瓶。
イヴェッタの言葉。
「そいつは、まだ使うな。今ヤツを殺せば、魂が空になる」
ヤツの、魂は。
だが、私の、魂は。
私は、遮光瓶を、掴んだ。
左腕の、傷口。
血が、流れている。
イヴェッタにもらった、銀のナイフは、床に転がっている。
カイルが遺した、あのナイフが、私の腰にある。
黒い影が、私の、目の前に、迫る。
「我が、器となれ!」
ゼノスの、歓喜の声が、頭蓋の内側に、直接響く。
影が、私の目から、鼻から、口から、そして、腕の傷口から、侵入しようとする。
冷たい、氷の針が、全身の皮膚を、突き破るような、感覚。
私は、遮光瓶の、コルク栓を、歯で引き抜いた。
『殺鼠剤』
薬屋の老婆の、乾いた声。
「一滴で、牛も眠る」
私は、その瓶を、傾けた。
黒い、粘り気のある液体。
それを、私の口に、流し込んだ。
苦い。
鉄が焼けるような、強烈な「痛み」が、喉を焼く。
「……ぐ、あああああ!?」
ゼノスの、絶叫。
それは、私の喉から、発せられた。
私の身体に侵入した、ゼノスの「虚無」
それが、私の身体の中で、物理的な「毒」に、焼かれている。
「馬鹿な! 貴様! 自分の器に、毒を!?」
ゼノスの声が、私の口から、漏れ出る。
私の意識が、遠のいていく。
毒が、私の血にも、回っていく。
だが、私の「魂」は、まだ、ここにある。
「……私の、ウツワは、お前のための、ものじゃない」
私が、私の声で、言った。
「ここは、私の、聖域だ」
私は、カイルが遺した、あのナイフを、腰から引き抜いた。
震える、手で。
毒で、麻痺していく、腕で。
「この、虫がああ!」
ゼノスが、私の手を、乗っ取ろうとする。
だが、毒が、ゼノスの「虚無」を、蝕んでいく。
ゼノスの「力」が、私の身体を、完全には、支配できない。
私の、左腕。
血を流した、あの傷口。
私は、そこに向かって、カイルのナイフを、突き立てた。
「ぐ、ああああああああああああああ!」
ゼノスの、絶叫。
私の、絶叫。
私の「血」
カイルの「ナイフ」
そして、あの「毒」
その三つが、私の身体の中で、ゼノスの「虚無」を、切り裂き、焼き尽くしていく。
黒い影が、私の、傷口から、口から、目から、霧のように、噴き出した。
「……おのれ。おのれ、小娘! この、魂ごと、腐れろ!」
ゼノスの、呪詛の言葉。
黒い影は、もはや、形を保てない。
それは、廃坑の闇の中へ、拡散し、消えていく。
ゼノスは、逃げた。
私の、この「毒された器」から。
静寂。
残されたのは、鉄と、血と、毒の、匂い。
私の、左腕。
そこには、カイルが遺したナイフが、深く、突き刺さっている。
痛みは、もう、感じない。
視界が、霞んでいく。
私は床に崩れ落ちた。
私の身体が、冷たくなっていく。
私は這うように、手を伸ばした。
数メートル先。
そこに、カイルの身体が、転がっている。
ヤツ(偽カイル)の、弱々しい息遣い。
カイルの瞳が、私を見ている。
碧い瞳。
ヤツの魂
「……エリア、ナ……」
ヤツが、カイルの声で、呟く。
「……なんで」
「……」
私は、カイルの、その手に、指先を伸ばした。
カイルの手。
ヤツ(偽カイル)の手。
だが、今は、ただの、カイルの身体
その指先が、触れる、寸前。
私の意識は、廃坑の、冷たい闇に、沈んだ。
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