第13話 瑕疵(かし)
灰色の光。
昨日の埃(ほこり)が、床板の上で薄い膜を作っている。
ヤツの寝息(いびき)が、止まった。
カイルの喉から、低い呻き声が漏れる。
獣が、罠にかかった時の音。
「……ぐ。頭が……」
ヤツが、カイルの身体(ガワ)で、寝返りを打った。
カイルの寝間着が、汗で肌に張り付いている。
アルコールと、ヤツ自身の異臭。
カイルのベッドが、ヤツの汚物(よごれ)で湿っている。
「エリアナ……水」
声が、掠(かす)れている。
カイルの声ではない。
カイルの喉を使った、ヤツの「弱り」
私は、すでに井戸から汲み直した水差しを手にしていた。
ヤツが昨日使ったコップ。
それを、洗い場の汚水に捨てる。
コップを、冷たい水で三度、濯(すす)ぐ。
ヤツの唾液(あと)を、消し去るために。
水を注ぎ、ヤツのベッドサイドに置く。
指が触れないように。
「……遅えんだよ」
ヤツがカイルの手で、コップを掴んだ。
カイルの指が、震えている。
疲労。
消耗。
ヤツは、カイルの身体(ウツワ)の悲鳴を、ただの「二日酔い」として処理している。
ヤツは水を一気に飲み干し、カイルの顔(ガワ)を歪めた。
「マズい水だな。……最悪の目覚めだ」
ヤツは、カイルの身体(ガワ)を起こした。
ギシリ、と。
ベッドが、ヤツの苛立(いらだ)ちに合わせて軋(きし)む。
ヤツの紅い瞳。
昨日よりも、濁りが増している。
血走った、不快な赤。
カイルの碧い瞳だけが、その濁りの隣で、冷たく沈んでいる。
「ギルド行くぞ。さっさと準備しろ」
「……うん」
仮面を貼り付ける。
ヤツが立ち上がる。
カイルの足が、わずかにもつれた。
ヤツはそれに気づかない。
---
ギルド。
朝一番の喧騒。
だが、空気は昨日よりも冷え切っていた。
ヤツが、カイルの身体(ガワ)で、ドアを押し開ける。
ヤツの異臭(アルコールとアセ)が、ギルドの澱(よど)んだ空気に混じる。
誰も、ヤツを見ない。
昨日の「ショータイム」は、すでに忘れ去られている。
あるいは、嘲笑の対象として、消化された。
ヤツはカウンターにまっすぐ向かう。
カイルの背中。
昨日より、わずかに猫背だ。
ヤツの「焦り」が、カイルの身体(ウツワ)を歪めている。
「おい。クエストだ」
ヤツがカイルの声で言う。
カウンターの女、イヴェッタが、面倒そうに顔を上げた。
「……掲示板から選んで」
「違う! もっとデカい仕事だ! 俺は魔王軍幹部を……」
「証拠は?」
鋼のような、冷たい声。
ギルドが、静かになった。
ヤツの背中に、視線が突き刺さる。
昨日の、あの三人組の冒険者、「鉄の爪」が、入り口近くのテーブルで、ヤツを見ていた。
その目に、何の感情も浮かんでいない。
ただ、そこにある「障害物」を見るような目。
ヤツが、カイルの顔(ガワ)で、唇を噛んだ。
カイルは、唇ではなく、奥歯を噛む。
「……チッ」
ヤツがカイルの舌で、舌打ちした。
その時。
「鉄の爪」のリーダーが立ち上がり、カウンターに向かった。
ヤツの横を、通り過ぎる。
ヤツの肩(カイルのカタ)に、わざとぶつかるように。
「ぐっ」
ヤツが、よろめいた。
カイルの身体(ウツワ)が、ヤツの弱り(ヨワリ)のせいで、簡単にバランスを崩す。
「……てめえ」
ヤツがカイルの顔(ガワ)で、リーダーを睨みつけた。
リーダーは、ヤツを、見なかった。
カウンターのイヴェッタに、羊皮紙を差し出す。
「『鉄の爪』。護衛依頼の報告だ」
「……ご苦労さま。Aランクへの昇格試験、推薦しとくわ」
イヴェッタの声が、ヤツに向けるものとは違う。
わずかに、熱を帯びている。
Aランク。
ヤツが、カイルの顔(ガワ)で、息を呑む音。
カイルの碧と紅の瞳が、リーダーの男の背中(ヤツよりもハルカにオオキイセナカ)を、捉えていた。
屈辱。
焦燥。
ヤツの「物語」に存在しなかった、「現実」
ヤツの魂(ナニカ)が、カイルの身体(ウツワ)の中で、不協和音を立てている。
リーダーの男は、報酬の袋を受け取ると、ギルドを出て行った。
ヤツに、一度も視線を寄越さずに。
ヤツは、カイルの手で、カウンターを殴った。
乾いた、空虚な音。
「……おい。なんでもいい! クエストだ! 俺の力を証明できるやつを、寄越せ!」
「……」
イヴェッタは、ヤツの紅い瞳を、冷たく見返した。
その濁りを、その「瑕疵(かし)」を、値踏みするように。
「なら、掲示板。一番下。……『廃坑の調査』。オークの目撃情報あり。あんたの『力』とやらを、試してみれば?」
オーク。
ゴブリンより、上。
「鉄の爪」より、下。
ヤツの「プライド」を、絶妙に突く、ただの「作業」
ヤツは、カイルの顔(ガワ)で、その言葉を反芻(はんすう)する。
「……あの、カイル」
私が、ヤツの袖を引いた。
ヤツの肌に、触れないように。
「オークって……。私、こわい」
仮面。
「怯えるヒロイン」の演技。
ヤツが、私を見た。
その紅い瞳が、私を「お荷物」として、値踏みする。
「……チッ。エリアナは、ここで待ってろ」
「え?」
「足手まといだ。俺一人で、さっさと終わらせる」
ヤツは、掲示板から「廃坑の調査」の札を、引きちぎった。
ヤツは、私を「守る」のではない。
ヤツは、自分の「ショータイム」を、私という「観客」に邪魔されたくないだけだ。
ヤツの傲慢(おごり)が、ヤツを「単独」にした。
ヤツの「油断」が、私を「自由」にした。
「……わかった。カイル、すごい。気をつけて、ね」
「当たり前だ。俺を誰だと」
ヤツはカイルの顔(ガワ)で、不敵に笑った。
カイルは、そんなふうに笑わない。
ヤツは、ギルドを出ていく。
カイルの身体(ガワ)で、一人で。
その背中(カイルのセナカ)が、森ではなく、鉱山地区へと消えていく。
---
静寂。
ヤツの異臭が消えたギルド。
私は、その場に立ち尽くしていた。
「……あんたも、行くのかい」
イヴェッタの声。
私は、カウンターを振り返った。
「……」
「あの子の、お守りも大変だ」
イヴェッタの目が、私を射抜いている。
眠そうな目ではない。
研がれた刃物のような、冷たい目。
私は、ゆっくりと、カウンターに近づいた。
「エリアナ」の仮面を、脱ぐ。
「……カイルは、一人で行った」
「そうね。……『英雄』様は、お一人で」
イヴェッタの口元が、わずかに歪んだ。
私は、懐に手を入れた。
木箱の中の、冷たい感触。
薬屋で手に入れた、『殺鼠剤』の遮光瓶。
それを、カウンターに置いた。
ガラス瓶が、木材に触れる、硬い音。
ギルドの喧騒が、一瞬、遠ざかる。
「……ネズミに、困っている」
私の声。
イヴェッタの目が、瓶を捉えた。
黒い、粘(ねば)り気のある液体。
「……ほう。王都は、ネズミが多いからね」
イヴェッタは、瓶に触れない。
「だが、そいつは、その毒じゃ死なないよ」
「……」
「あんたが追ってる『ネズミ』は、ただのネズミじゃない。……そうだろ?」
イヴェッタが、カウンターの奥のドアを、顎(あご)で示した。
「裏へ。酒場は、聞く場所じゃない」
---
ギルドの奥。
皮の鞣(なめ)し革と、古いインクの匂い。
イヴェッタは、私を小さな部屋に通した。
鍵が、かかる。
重い音。
「あんた、分かってるね。……あの『カイル』が、本物じゃないこと」
「……」
「あの紅い目。あれは、あんたの言う『ネズミ』が、カイルの魂(ウツワ)に食い込んだ『瑕疵(かし)』の証だ」
イヴェッタの言葉が、私の皮膚を、冷たく刺す。
「『虚無のゼノス』」
私が、村で聞いた、あの魔族の名を口にする。
イヴェッタの目が、見開かれた。
「……知って」
「ヤツが、言った」
イヴェッタが、舌打ちした。
「……あの馬鹿。自分の『呪い』の名を、自分で……」
イヴェッタは、机の上の羊皮紙を、強く握りしめた。
「ゼノスは、死んでない。あんたの『カイル』が倒したのは、ただの『殻』だ。……奴の本体は『虚無』。器(ウツワ)が壊されようと、また別の器(ウツワ)を見つけて、蘇る」
「……」
「ヤツは、今、カイルの身体(ウツワ)の中で、待っている。……もっと、強い魂(リソース)を求めて」
心臓が、冷たい水に浸された。
カイルの魂(リソース)。
ヤツが「無限」だと言った、あの力。
ゼノスが、それを求めて、ヤツを、カイルの身体(ウツワ)を、追っている。
いや。
すでに、その内側に、いる。
「あの『力』。ヤツが、魔法と呼んでいる、あの光。あれを使うたび、カイルの魂(リソース)は擦り切れる。そして、魂(ウツワ)が弱った瞬間……」
「……ゼノスが、その身体(ウツワ)を、乗っ取る」
「そう。……そして、あの廃坑。あそこは、ゼノスが以前、使っていた『古い巣』の一つよ」
「……!」
「あんたの『カイル』は、そこへ、呼ばれたのよ。オークなんて、ただの『餌』。……本命は、あの子の魂(リソース)を、完全に奪うための、儀式の場所だ」
ヤツが、危ない。
カイルの身体(ウツワ)が、危険に晒されている。
ヤツの「傲慢」と「油断」が、最悪の「罠」に、ヤツ自身を導いた。
「……どうすれば、いい」
「……『ネズミ』を、殺すか? それとも、『器(ウツワ)』を、守るか?」
イヴェッタの目が、私を試している。
「……『器(ウツワ)』を、守る」
カイルの聖域。
それだけが、私の「現実」
イヴェッタは、私の『殺鼠剤』を、私に押し返した。
「……そいつは、まだ使うな。今ヤツを殺せば、魂(ウツワ)が空になる。ゼノスが、喜んで入るだけだ」
イヴェッタは、引き出しから、小さなナイフを投げた。
銀色の、使い古されたナイフ。
カイルが研いでくれた、あのナイフとは違う。
冷たい、ただの「道具」
「……それ、あげる」
イヴェッタが、言った。
「あんたも、登録しなさい。……『冒険者』に。生き延びたいならね」
「……なぜ」
「ギルドは、王都(ココ)に、魔王軍幹部(ゼノス)の『巣』ができるのを、見過ごせない。……それだけよ」
私は、ナイフを掴んだ。
金属の冷たさが、手のひらを焼く。
カイルの聖域を守る。
ヤツから。
ゼノスから。
この、王都という「戦場」から。
私は、イヴェッタに背を向けた。
部屋を、出る。
ギルドの喧騒。
その音(ノイズ)を突き抜け、私は、廃坑へと走り出していた。
ヤツの匂い(イシュウ)ではなく、カイルの聖域を脅かす「死」の匂いを、追って。
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