第12話 澱(おり)
ギルドの重い木戸が、ヤツの背中で開いた。
外の埃っぽい光が、中の澱んだ空気を一瞬だけ切り裂く。
酒と、汗と、古い血の匂い。
森でヤツが撒き散らした生々しい血の匂いが、その古い腐敗の匂いに混じり、上書きされていく。
ヤツはカイルの身体で、カウンターまでまっすぐ歩いた。
カイルの靴が、床にこぼれた酒を踏む。
湿った、不快な音。
ヤツの背中から、ゴブリンの血の匂いが漂う。
ヤツの汗の匂いと混じり、酸っぱい異臭となって私の鼻腔を刺す。
私は、ヤツの三歩後ろ。
その異臭を吸い込まないよう、浅い呼吸を繰り返す。
「おい!」
ヤツがカイルの声で叫んだ。
血塗れの麻袋を、カウンターの木材に叩きつける。
鈍い、湿った音。
袋の隙間から、緑色の皮膚と、乾き始めた血が見える。
「ゴブリン討伐だ。終わらせてきたぞ」
カウンターの向こうの女。
昨日と同じ、眠そうな目をした女が、ヤツの麻袋を見た。
一瞬、眉がひそめられる。
血の匂い。
死の匂い。
ヤツがカイルの身体で、無頓着に持ち込んだ「現実」
女は、麻袋の口を、ペン先で器用に開いた。
中身を一瞥する。
「……五体。確かに」
女の声は、変わらない。
事務的な、乾いた音。
「討伐の証拠。確認。こちらが報酬。銅貨三十枚」
銅貨が、カウンターに無造作に放り出された。
ヤツがそれを、カイルの手でかき集める。
カイルが鍛冶仕事で、熱い鉄を掴んだ、あの手。
その手が、ゴブリンの血と、銅貨の汚れで、上書きされていく。
「どうだ。言っただろ。俺は『英雄』なんだ」
ヤツがカイルの声で、周囲に聞こえるように言った。
ギルドの中が、わずかに静かになる。
ヤツに突き刺さる、視線。
好奇。
侮蔑。
あるいは、無関心。
ヤツは、その全てを「賞賛」として受け取った。
ヤツの「イージーモード」の脳。
カイルの顔が、ヤツの浅はかな自信で歪んでいる。
「エリアナ!」
ヤツが私を呼んだ。
カイルの声で。
「飯だ! ここの一番高い肉、食わせてやる!」
ヤツは、ギルドの酒場スペースを指差した。
一番奥の、一番汚れたテーブル。
ヤツはそこが、この場所の「玉座」だと信じている。
ヤツは銅貨の袋を鳴らしながら、そっちへ歩いていく。
カイルの背中。
カイルの服についた、ゴブリンの爪痕。
そこから、ヤツの汗が滲んでいる。
私は、ヤツの後に続いた。
ヤツが、椅子を引く。
ギシリ、と。
カイルの体重ではない、ヤツの傲慢さが、木を軋ませる。
ヤツは、カイルの身体で、ふんぞり返った。
「おい! 酒だ! 一番強いやつ! それと肉!」
ヤツがカイルの声で、再び叫ぶ。
私は、ヤツの向かいに座る。
テーブルの、一番端。
ヤツから、一番遠い場所。
ヤツの体温が、届かない距離。
ヤツの呼吸が、かからない場所。
酒が来た。
琥珀色の、濁った液体。
ヤツはそれを、カイルの手で掴み、カイルの喉で、一気に煽った。
ゴクリ、と。
カイルの喉仏が、大きく動く。
カイルは、こんなふうに酒を飲まない。
ヤツは、カイルの身体を、ただの「容器」として使っている。
「ぷはー! やっぱ勝利の酒は美味えな!」
肉が来た。
骨付きの、黒く焦げた塊。
脂の焼ける匂いと、血の匂いが混じる。
ヤツは、ナイフを使わない。
カイルの手で、それを掴んだ。
カイルの歯で、それを噛みちぎった。
獣。
カイルの顔をした、ただの獣。
ヤツは、カイルの口で、咀嚼する。
カイルの顎が、下品な音を立てる。
「美味え! これだよ、これ! 俺が望んでた『異世界』ってのは!」
ヤツが、私には理解できない単語を呟く。
ヤツは、私を見ていない。
ヤツは、肉と酒と、自分の「幻想」しか見ていない。
その紅い瞳が、酒と興奮で、さらに濁っている。
血走った、不快な赤。
私は、自分の膝の上を見た。
懐の奥。
カイルが遺した、固い黒パン。
その感触だけが、私の「現実」
ヤツの「ショータイム」
ヤツの「イージーモード」
その全てが、このパンの、素朴な重みの前で、薄っぺらく、滑稽に見える。
ヤツは、カイルの身体を酷使している。
朝の酒。
森での戦闘。
カイルの魂の消費。
そして、今、この酒と脂。
カイルが、あれだけ大事にしていた、鍛冶仕事のための身体。
ヤツは、それを、一日で汚し、傷つけ、消耗させている。
ギルドのドアが、また開いた。
新しい冒険者。
三人組。
ヤツとは違う。
使い込まれた、しかし手入れの行き届いた革鎧。
静かな目。
彼らは、ギルドの喧騒を一瞥した。
ヤツを見た。
ヤツのテーブル。
血の匂い。
骨の山。
ヤツの、カイルの顔に浮かんだ、傲慢な笑み。
三人組のリーダー格の男が、小さく鼻を鳴らした。
嘲笑。
あるいは、ただの憐れみ。
彼らは、ヤツを無視した。
カウンターで、静かに依頼を受けている。
ヤツが、それに気づいた。
カイルの手が、止まる。
肉の骨を握りしめたまま。
ヤツの紅い瞳が、三人組を睨みつける。
カイルの顔が、ヤツの屈辱で歪む。
「……なんだよ、あいつら」
ヤツがカイルの声で、低く呟く。
「新入りの俺に、嫉妬してんのか?」
ヤツの「イージーモード」の脳。
ヤツの「シナリオ」
ヤツは、三人組を、次の「イベント」の「敵役」として処理した。
「見てろよ、エリアナ」
ヤツが、私を見た。
その濁った紅い目が、私を捉える。
「あんな雑魚、すぐに追い越してやる」
ヤツは、残っていた酒を、カイルの喉に流し込んだ。
「次は、もっとデカいのをやる。ドラゴンか? リッチか? なんでも来いだ」
ヤツはカイルの顔で、不敵に笑った。
カイルは、そんなふうに笑わない。
ヤツは立ち上がった。
カイルの身体が、よろめく。
酒。
疲労。
魂の消費。
ヤツは、カイルの身体の「悲鳴」に気づかない。
「帰るぞ、エリアナ。宿で『作戦会議』だ」
ヤツが歩き出す。
カイルの足が、もつれている。
ヤツは、私に手を伸ばした。
カイルの手。
「……肩、貸せ」
私は立ち上がる。
ヤツの手に、触れない。
ヤツの腕の下を、すり抜ける。
「きゃっ」
テーブルの脚に、わざと躓く。
「ご、ごめんなさい、カイル! 私、荷物を」
自分の荷物を、拾い上げる。
ヤツと、距離を取る。
「……チッ。使えねえな」
ヤツがカイルの舌で、舌打ちした。
ヤツは、カイルの身体で、壁に手をつきながら、ギルドを出ていく。
無様な背中。
カイルの背中。
私は、その三歩後ろを、ついていく。
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宿の、狭い部屋。
ドアを開けた瞬間、昨日のカビと埃の匂いが、ヤツの匂い(酒、汗、血、異臭)で、上書きされた。
空気が、重い。
息が、詰まる。
ヤツは、カイルの身体で、ベッドに倒れ込んだ。
カイルの靴が、汚れたシーツを蹴る。
ヤツは、服も脱がない。
カイルの身体を、休ませることをしない。
「……んん」
ヤツが、カイルの喉で、獣のような寝息を立て始めた。
カイルの寝息ではない。
静かで、深い、鍛冶場の炉のような、あの音ではない。
不規則で、浅い、ただの消耗。
私は、自分のベッドに座る。
ヤツから一番遠い、私の聖域。
ヤツの寝顔。
カイルの寝顔。
その顔が、苦痛に歪んでいるように見えた。
ヤツの「夢」のせいか。
それとも、カイルの身体が、ヤツという「毒」に、抵抗しているのか。
ヤツの弱点。
「傲慢」
「油断」
「身体への無頓着」
ヤツの力。
カイルの魂を削る、あの光。
ヤツは「無限」だと言った。
だが、あの三人組の冒険者は、ヤツの力を「本物」として見ていなかった。
ヤツの紅い瞳。
あの光を使うたび、あの瞳の濁りが、増している。
私は、懐の奥に触れた。
薬屋で手に入れた、遮光瓶。
『殺鼠剤』
老婆の言葉。
「毒は、使うタイミングが肝心だ」
今、この寝息を止めるのは、簡単だ。
だが、カイルの身体が死ぬ。
それは、ダメだ。
私は、木箱を開けた。
カイルが研いでくれた、ナイフ。
カイルが教えてくれた、罠。
ゴブリンの森。
あの樫の木の根元。
ヤツの、隙だらけの動き。
ヤツを「利用」する。
ヤツの「力」で、カイルの身体(ウツワ)を、魔王軍から守らせる。
ヤツが、カイルの魂(リソース)を使い果たし、弱った時。
あるいは、ヤツが、あの「傲慢」さで、最大の隙を晒した時。
その瞬間に、ヤツだけを「駆除」する。
私は、水差しを手に取った。
井戸で、冷たい水を汲む。
布を濡らし、固く絞る。
ヤツが汚した、カイルの靴。
そこにこびりついた、ゴブリンの血と、脳漿。
私は、それを拭き取り始めた。
ヤツのためではない。
カイルの聖域を、これ以上、汚させないため。
冷たい水が、布を伝い、私の指先を濡らす。
ヤツの寝息が、部屋の空気を震わせる。
私は、その音の中で、ただ、手を動かし続けた。
カイルの、帰る場所を、守るために。
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