第10話 毒と聖域
裏通りは、表通りの喧騒を壁一枚で遮断していた。
冷たく湿った石畳。
下水と、何かが腐った酸っぱい匂い。
ヤツの匂いとは違う。
あれは生物の体温が腐る匂い。
これは無機物が澱む匂いだ。
私はパン屋の軒先を通り過ぎた。
酒屋の樽も無視する。
ヤツの命令より、私の武器が先だ。
薬屋。
看板は出ていない。
壁に、カイルが教えてくれた薬草師の印(マーカー)が、小さく削られていただけだ。
ドアを押す。
乾いたベルの音は鳴らない。
油の切れた蝶番が、軋んだ音を立てた。
中は暗い。
埃が光の筋となって、床に落ちている。
匂い。
乾燥した薬草。ミント。樟脳。
その下に、カビと、獣の糞尿の匂いが混じる。
カウンターの奥。
闇に溶けた老婆が、私を見ていた。
目だけが、磨かれた黒曜石のように光っている。
「……何かお探しカイ。嬢ちゃん」
低い、擦れた声。
私はカウンターに、村長から貰ったなけなしの銅貨を数枚置いた。
金属が木材に触れる、乾いた音。
「ネズミに。困っています」
老婆の目が、私を見た。
私の顔。
私の手。
私の懐。
値踏みする視線。
ヤツとは違う。
ヤツは私を「獲物」として見る。
この老婆は、私を「道具」として見る。
「……ほう。ネズミ。この王都は、ネズミが多いからの」
老婆は動かない。
闇の中で、指先だけが動いた。
乾いた皮膚が擦れる音。
「どんなネズミだい」
「大きい。しつこい。私の寝床を荒らす」
「……」
老婆の口元が、わずかに歪んだ。
笑いではなかった。
筋肉の痙攣。
「それは、いけないねえ」
老婆がゆっくりと立ち上がる。
背後の棚。
無数の小瓶が、光を鈍く反射している。
彼女は一つの瓶にも触れない。
床下の、隠された戸板に手をかけた。
そこは、薬草の匂いではなく、土と、死の匂いがした。
「これは、よく効く」
差し出されたのは、小さな遮光瓶。
指先が触れる。
ガラスの冷たさが、皮膚を刺した。
「一滴で、牛も眠る」
「……代金」
「足りないねえ」
老婆は、私が置いた銅貨を一瞥した。
「そのネズミは、大きいんだろう?」
私は懐に手を入れた。
カイルがくれた、碧い石。
その隣にある、母の形見の銀の耳飾り。
それをカウンターに置いた。
銀の冷たさ。
老婆の目が、耳飾りを捉えた。
「……ほう」
老婆の手が伸びる。
乾いた指先が、銀に触れた。
「これなら、お釣りがくるねえ」
遮光瓶が、私の手に滑り込んできた。
懐に仕舞う。
ガラスの重みが、腹の皮膚を冷たく圧迫する。
私の、新しい武器。
「嬢ちゃん」
私が背を向けた時、老婆が言った。
「そのネズミは、賢いかもしれないよ。……毒は、使うタイミングが肝心だ」
私は振り返らなかった。
---
パン屋の裏口。
固くなった黒パンを、銅貨二枚で買った。
石のように冷たく、重い。
カイルの糧。
酒屋。
一番安い蒸留酒を、雑な皮袋に詰めてもらう。
店主が私を見る。
ギルド裏の安宿に消える、幼い女。
その視線が、何を意味するか。
私は俯く。
怯えたように金を払い、路地に戻る。
仮面は、こういう時にも役に立つ。
宿の階段。
一階の酒場は、すでに酔っ払いの怒声で揺れていた。
その熱気が、むわりと二階まで追いかけてくる。
ヤツの匂いと同じ、人間の「生」の匂い。
不快だ。
部屋のドアは、開いていた。
鍵は渡したが、ヤツは閉めることすらしなかった。
カイルは、いつも私に鍵をかけるよう口うるさく言っていた。
「お前は不用心すぎる」
そう言って私の頭を小突く、カイルの指。
あの節くれだった指の感触。
もう、ない。
部屋の中。
空気が、ヤツの匂いで満たされている。
アルコール。
汗。
カイルの石鹸の匂いを上書きする、あの生暖かい異臭。
ヤツはカイルの身体で、ベッドにふんぞり返っていた。
私が買ったものではない、別の酒瓶が床に転がっている。
ギルドの「報酬」
カイルの身体を危険に晒した、ヤツの「功績」
「おっせえなエリアナ! 何してたんだよ!」
ヤツが私を睨む。
カイルの顔で。
カイルの碧と紅の瞳で。
その紅い瞳が、酒で濁っている。
「ごめんなさいカイル。パン屋さんが、混んでて……」
私は怯えたように演じる。
ヤツに、酒の皮袋と、パンの包みを差し出す。
ヤツはそれを、ひったくるように奪い取った。
「チッ使えねえな。こっちの酒も無くなるとこだったぜ」
ヤツは皮袋の封を、カイルの歯で噛み切った。
カイルが、鍛冶仕事で熱い鉄を噛むために使っていた、あの歯で。
ヤツはそのまま酒をラッパ飲みする。
カイルの喉が、ゴクリと鳴る。
カイルの身体が、ヤツの汚物で満たされていく。
「……カイル。あまり飲みすぎると」
「あ? んだよ指図すんのか?」
ヤツが私を睨みつける。
カイルの顔で。
「ううん……ごめんなさい」
私は「ヒロイン」の仮面で、俯いた。
ヤツは満足そうに鼻を鳴らし、パンの包みを開けた。
固い黒パン。
「なんだよこれ。石か?」
ヤツはパンを一口齧り、顔を歪めた。
「マズッ! お前こんなもん食うのかよ」
ヤツはパンを、床に投げ捨てた。
埃の積もった床。
カイルが鍛冶仕事の合間に、「美味い」と言って食べていた、あのパンを。
カイルの身体が、カイルの糧を拒絶した。
私は何も言わなかった。
そのパンを、静かに拾い上げる。
パンに付いた埃を、服の袖で丁寧に払う。
ヤツの視界の外で。
それを、自分の荷物の横に置いた。
ヤツから一番遠い、もう一つのベッド。
そこが私の「領域」
私の「聖域」
私は自分のベッドの縁に、静かに腰掛けた。
ヤツの視界の隅で。
かばんから、水差しと、清潔な布を取り出す。
「……何してんだ?」
「……水。埃っぽいから。カイルも喉渇いたでしょ」
私はテーブルの上の水差しを手に取った。
ヤツが触れたかもしれない。
それを一度捨て、窓の外に見える井戸で、新しい水を汲み直す。
戻ってくる。
ヤツが触れた、テーブルを拭く。
ベッドの縁を拭く。
ドアノブを拭く。
ヤツが転がした酒瓶を、足でヤツのベッドの下に蹴り込む。
私の領域と、ヤツの領域を、分ける。
カイルの身体から発散される「汚染」から、私の聖域を守るために。
「……ふーん。気が利くな。やっぱエリアナは最高のヒロインだ」
ヤツはカイルの顔でニヤつきながら、それを見ていた。
ヤツの「イージーモード」の脳。
私の行動を、「健気なお世話」として処理している。
それでいい。
「まあいい。明日だ。明日になればこんなマズい飯ともおさらばだ」
ヤツが酒を煽りながら、カイルの声で言った。
「ギルドの推薦状だろ? 明日一番でクエスト受けてやる。俺の『創生魔法』見せつけてな」
「……うん。カイルならできるよ」
「当たり前だ。俺は『主人公』なんだからな」
「しゅじんこう……?」
「こっちの話だ。とにかく俺はあの城に行く。国王に会う。そしたらお前も……」
ヤツが、カイルの顔で、私を見て下品に笑った。
「お前も『お姫様』だ。せいぜい今のうちに俺に尽くしとけよ」
ヤツはそう言うと、カイルの身体で、再びベッドに寝転んだ。
カイルの寝間着がはだけ、カイルの胸板が露わになる。
そこにはもう、石鹸と鉄の匂いはしない。
酒と汗と、ヤツの異臭だけが漂う。
私は自分の荷物を、整理するふりをした。
かばんの中の、木箱。
それを開ける。
カイルがくれた、碧い石。
カイルが教えてくれた、罠。
カイルが研いでくれた、ナイフ。
カイルの「痛み」
その横に、今日手に入れた小さな遮光瓶を並べる。
『殺鼠剤』
この部屋にいる、不潔な「ネズミ」を殺すための毒。
今、この酒に一滴垂らせば。
ヤツが眠っている間に、このナイフを突き立てれば。
何度も、その衝動が指先を焼く。
だが、できない。
ヤツを殺せば、カイルの身体が死ぬ。
私の聖域が、私の手で破壊される。
それだけは、ダメだ。
ヤツはこのカイルの身体があるからこそ、「無限」の魂とやらを使える。
ヤツがそう信じている。
なら、この身体は、私にとってもヤツにとっても、「人質」だ。
ヤツは魔王軍に狙われている。
私はヤツに、カイルの身体を守らせる。
そのために、ヤツの「イージーモード」の幻想を、私が支え続ける。
ヤツが「主人公」として傲慢になればなるほど、ヤツの隙は増えていく。
毒は、今じゃない。
ナイフも、今じゃない。
私の武器は、ヤツの「油断」だ。
「……んん。……ふが」
ヤツの寝息が聞こえ始めた。
酒に酔った、獣の寝息。
カイルの寝息ではない。
私は、床に落ちていたパンを、一口齧った。
固くて、味のないパンが、喉を無理やり通っていく。
生きなくては。
ヤツを欺き続けるために。
カイルの身体を取り戻す、その日まで。
私はベッドに横になった。
服は脱がない。
靴も履いたままだ。
カイルの聖域が、すぐそこで汚されている。
その音と、匂いが、私の神経を張り詰めさせる。
窓の外で、王都の夜の音が響いていた。
遠い喧騒と、すぐそばの静かな寝息。
私はその全てを、闇の中で聞き分けていた。
眠りなど、必要なかった。
---
灰色の光が、埃の積もった窓を殴った。
床板が冷たい。
私はすでに、水差しを持って井戸の前に立っていた。
二度目の朝。
ベッドが軋む。
カイルの身体が、汚れたシーツの中で動いた。
ヤツの口から、酸っぱい息が漏れる。
アルコールと、昨夜の残りカスの匂い。
カイルの匂いではない。
「……あー。頭いてえ」
ヤツが、カイルの手で、カイルのこめかみではない場所を雑に擦った。
カイルの癖。
左手。人差し指の第二関節。
ヤツは知らない。
「エリアナ。水」
命令。
私は新しい水を注いだコップを、ヤツのベッドサイドに置く。
指が触れないように。
「きゃっ」
わざとよろける。
テーブルの角に腰を打つ。
鈍い痛み。
ヤツがカイルの顔で、私を見て鼻を鳴らした。
「ドジだな。さっさと準備しろ。ギルド行くぞ」
「う、うん!」
仮面を貼り付ける。
ヤツが床に捨てた、カイルの糧。
その残りを、布に包んで懐に入れる。
ギルドは朝から騒音と熱気で満ちていた。
床にこぼれた酒。
血の匂い。
錆びた鉄の匂い。
カイルの鍛冶場の匂いとは違う。
あれは「生」の匂い。
ここは「腐敗」の匂いだ。
ヤツは人混みをかき分けてカウンターに向かう。
カイルの肩幅。
カイルの歩き方。
だが、違う。
ヤツの動きには他者への配慮がない。
カイルはいつも私の半歩前を、私を庇うように歩いた。
「おう! クエストだ! 昨日登録したカイルだ!」
ヤツがカイルの声で叫ぶ。
カウンターの向こうの女が、眠そうな目でヤツを見た。
昨日、ヤツを登録した職員だ。
「……ああ、カイルね。はいはい。新人はあっちの掲示板から選んでちょうだい」
「は? 掲示板? 俺は魔王軍幹部を倒したんだぜ! 『英雄』だ! 国王への推薦状を……」
「だから」
女の声が、鋼のように冷たくなった。
「推薦状が欲しけりゃ、ここで実績を積むの。それがルール。幹部を倒した『証拠』は? 死体は? 目撃者は? あんたの、その変わった目だけじゃ、誰も信用しないわよ」
ギルドが一瞬、静かになった。
ヤツに突き刺さる、嘲笑の視線。
ヤツがカイルの顔で、屈辱に唇を噛む。
カイルはそんな時、唇ではなく、奥歯を噛む。
「……チッ」
ヤツが舌打ちした。
カイルの舌で。
ヤツはカウンターを離れ、掲示板に向かう。
無様な背中。
カイルの背中。
羊皮紙が、隙間なく貼られている。
「薬草採取」「ゴブリン討伐」「下水道のネズミ駆除」
ネズミ。
懐の奥で、遮光瓶が、腹の皮膚を冷たく押した。
「ショボいのしかねえな」
ヤツがカイルの顔で不満を漏らす。
「俺の『創生魔法』を使わせる気かよ。こんな雑魚相手に」
ヤツの「イージーモード」の脳。
ヤツの「シナリオ」。
ヤツは気づかない。
周囲の冒険者たちが、ヤツを「使えない新人」として見ていることに。
「……あの、カイル」
私はヤツの袖を引く。
ヤツの肌に触れないように。
「最初は、簡単なのがいいんじゃ……。私、戦えないし」
仮面。
「か弱いヒロイン」の演技。
ヤツが私を見た。
カイルの碧と紅の瞳。
その紅い瞳が、私を「お荷物」として値踏みする。
「……チッ。仕方ねえな。お前もいるんだった」
ヤツは、「ゴブリン討伐」の札を引きちぎった。
一番手前にある、一番報酬の安い仕事。
ヤツはそれを選んだのではない。
ヤツの傲慢さが、ヤツにそれを選ばせた。
「これでいいだろ! さっさと終わらせるぞ!」
「う、うん!」
私は俯く。
ゴブリン。
カイルが昔、森で罠の作り方を教えてくれた。
獣用。
あれは、ゴブリンにも効く。
ヤツの「ショータイム」
ヤツの力を測る。
カイルの魂を、ヤツがどれだけ無駄遣いするのか。
この目で。
ヤツがカウンターに札を叩きつける。
「おい! これ受けるぞ!」
「はいはい。森の南区画ね。気をつけて」
ヤツはギルドを出ていく。
カイルの身体で、自信満々に。
私はその三歩後ろを、ついていく。
ヤツの影として。
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