第5話 幕開けの朝
夜が明ける。
薄汚れた窓ガラスを透かして灰色の光が差し込む。
自室のベッドの上で私は目を開けていた。
一睡もしていない。
だが思考は刃物のように研ぎ澄まされている。
手のひらの中の碧い石が冷たく体温を奪っていく。
カイルの体温。
それを失った石。
階下で床板の軋む音がした。
ヤツが起きた。
カイルのベッドで。
カイルの身体(ガワ)で。
ヤツが二度目の朝を迎えた。
私は碧い石を懐の奥に仕舞う。
ベッドから音もなく立ち上がる。
鏡に映る自分を見る。
昨日までの「エリアナ」の顔がそこにある。
わずかに寝癖のついた亜麻色の髪。
少し怯えたようなか弱い翠の瞳。
完璧な偽装の仮面。
私はこの仮面を完璧に演じきると決めた。
*
台所。
水を桶に汲む。
その水音だけが静かな家の中に響く。
冷たい水で顔を洗い意識を皮膚の表面に集中させる。
私は薪に火を点ける。
いつもより少しだけ手際が良すぎるかもしれない。
ヤツは気づかない。
ヤツは何も見ていない。
ヤツはカイルの顔(ガワ)をしたただの「客」だ。
スープ用の鍋を火にかける。 干し肉を刻む。 昨日のキノコはもう使わない。 ヤツの耐性を測る必要はもうないからだ。 ヤツの弱点は毒ではない。 ヤツの弱点はその「浅はかな思考」そのものだ。
「……お、おはよう。エリアナ」
ヤツが台所に入ってきた。
カイルの声で挨拶をする。
カイルが着ていた寝間着のまま。
カイルの身体(ガワ)を無防備に晒している。
その胸板。
その腕。
すべてカイルが鍛冶で鍛え上げたもの。
ヤツのものではない。
「おはよう、カイル」
私は振り返る。
完璧な「エリアナ」の笑顔を貼り付けて。
ヤツの目を見る。
碧と紅の異質な瞳。
「よく眠れた? 昨日は……すごかったから」
ヤツの顔が途端に得意げなものに変わる。
待っていた言葉。
欲しかった賞賛。
実に読みやすい。
「はは、まあな。あの魔族? 大したことなかったぜ」
「うん。本当に、すごかった。カイルが、村を、私を……守ってくれた」
私はわずかに声を震わせた。
「感動」しているヒロインを演じる。
ヤツは満足そうに鼻を鳴らした。
「当然だろ。お前は、俺が守る」
ヤツがカイルの顔(ガワ)でそう言った。
ヤツがカイルの台詞(コトバ)を汚していく。
手の甲の皮膚の下で虫が這うような感覚が走った。
「……朝ごはん、もうできるから。顔、洗ってきて」
「おう。サンキュ」
ヤツは無防備に背中を向け洗い場へ向かった。
カイルならこんな朝背中を見せることはなかった。
彼は私が寝ている間にとうに鍛冶場の火を起こしていた。
ヤツはカイルの習慣を何一つ知らない。
食卓。
スープと黒パン。
ヤツがカイルの席に座る。
ヤツがカイルの手でスプーンを持つ。
その持ち方が違う。
カイルは人差し指を立てるような癖があった。
ヤツは鷲掴みにするようにスプーンを握っている。
不快だ。
視界に映るすべてが。
ヤツはスープを一口啜る。
「美味い」とカイルの声で言う。
カイルの舌で味わう。
私は自分のスプーンをただ見つめていた。
食欲などどこにもない。
だが食べなくては。
私はヤツを欺き続ける「燃料」を補給しなくてはならない。
コン、コン。
不意に玄関のドアを叩く音がした。
ヤツが顔を上げる。
「ん? 誰だ、朝から」
「私、見てくる」
私が立ち上がる。
ドアを開けるとそこにいたのは村長だった。
皺だらけの顔が疲労と何かの決意で強張っている。
「……おはよう、エリアナ。カイルくんは、おるか」
「村長さん。ええ、今……」
「カイルです。どうかしましたか」
ヤツが私の背後から現れた。
カイルの顔(ガワ)で村長に応対する。
村長の目がヤツの紅い左目を見て一瞬怯えたように揺れた。
「おお、カイルくん……! 昨日は、本当に……!」
村長は深々と頭を下げた。
「君がいなければ、村は……我々は……! なんとお礼を言ったらよいか!」
「いえ。当然のことをしたまでです」
ヤツが昨日使った台詞をまた繰り返した。
その薄っぺらさに吐き気がする。
「それで……村長。何か、急ぎの御用ですか」
ヤツはもう自分がこの村の「英雄」であり「中心」であると疑っていない。
その傲慢さがヤツの隙。
村長は顔を上げた。
その表情は暗い。
「……うむ。カイルくん。君に、村の総意として、お願いがある」
「お願い、ですか」
「この村を、出ていってはくれまいか」
ヤツの顔から笑顔が消えた。
「え」という間抜けな声がカイルの喉から漏れた。
「……どういう、ことですか」
「君が倒したのは、魔王軍幹部『虚無のゼノス』。……自警団が、魔族の死骸から、紋章を見つけた。あれは、本物だ」
村長の声が震える。
「本物の魔王軍幹部がこんな辺境の村になぜ来たか。……答えは一つしかない」
「……」
「君だカイルくん。君のその『力』に奴らは気づいた。一人がやられれば次は軍団で来るかもしれん」
村長の視線がヤツから私へそして家の中へ怯えるように動く。
「村は……君を守りきれん。いや……君がいると村が持たん。頼むカイルくん。君は王都へ行ってくれ」
「王都……?」
「その力を国王陛下に報告するべきだ。君はもうただの鍛冶屋の息子ではない。魔王と戦える唯一の希望やもしれん」
村長の言葉。
それはヤツにとって最高の「シナリオ」だろう。
「村の英雄」から「世界を救う勇者」へ。
ヤツの「イージーモード」のゲームが次のステージに進む。
ヤツの紅い瞳がギラリと光った。
カイルの顔(ガワ)が野心に歪む。
「……わかりました。村長の言う通りです。俺は、行くべき場所へ行きます」
「おお……! わかって、くれるか!」
「だが、王都か。遠いな」
「旅の支度は村でできる限り支援しよう。馬車も……」
「カイル」
私はヤツの服の袖を掴んだ。
「ヒロイン」の演技。
「……私も、行く」
ヤツが驚いたように私を見た。
その目に「面倒だ」という色が一瞬浮かんだ。
すぐにヤツはカイルの顔(ガワ)で優しく笑った。
「エリアナ……? 王都への旅は、危険だぞ」
「それでも。私はカイルの幼馴染だもの。カイルのお世話は私がしないと……ダメ」
私は目に涙を浮かべる。
完璧な演技。
「俺がいないとダメ」な健気な少女。
ヤツはこういう「お約束」に弱い。
「……仕方ないな」
ヤツは村長に聞こえるようにわざとらしくため息をついた。
「わかった。エリアナも一緒に連れて行きます。俺が必ず守りますから」
「おお……そうか。エリアナも……。わかった。二人分の支度を、すぐに」
村長は安堵と憐れみが混じった目で私を見た。
そしてまた深々と頭を下げて去っていった。
ドアが閉まる。
ヤツが私に向き直る。
「……ってワケだ。エリアナ。準備、できるか?」
「うん。任せて」
私は笑顔で頷いた。
ヤツは満足そうに自分の部屋へ戻っていく。
「聖剣」だの「王都」だのぶつぶつと呟きながら。
カイルの部屋着をカイルの仕草(クセ)で脱ぎ捨てもせず。
私は台所に戻る。
火を消す。
ヤツが残したスープの皿。
そこにカイルではない「誰か」の不快な痕跡が残っている。
私はそれを冷たい水で洗い流した。
王都。 それでいい。 この村から離れる。 カイルの思い出が染み付いたこの場所から。 ヤツの正体を知る人間が誰もいない場所へ。 そこが私の戦場になる。
私は自室に戻った。
かばんの底にあの小さな木箱を仕舞い込む。
刃物。
薬草。
罠(ワイヤ)。
カイルが私に教えてくれた生きる術のすべて。
ヤツが「イージーモード」の幻想に浮かれている間に。
私はカイルの身体(ウツワ)からあの害虫を「駆除」する準備を進めるだけだ。
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