第4話 幼馴染


 ヤツが息を呑む音が聞こえた。

 広場の喧騒が急速に遠ざかる。

 差し出したまま動かないヤツの手。

 貼り付けた笑顔が凍りつき奇妙な形に歪んでいる。

 その碧と紅の瞳。

 カイルの瞳。

 そこに映る私を見る。

 その瞳がカイルのものではないことを私は知っている。


 カイルの瞳はこんな色ではなかった。

 同じ碧でもっと深く森の湖の底のような静けさがあった。

 紅い瞳などカイルは持っていなかった。

 ヤツの左目が不快なほど鮮烈な紅を灯している。

 まるでカイルの純粋な碧を汚すように。


「……エリアナ?」


 ヤツが私の名前を呼んだ。

 カイルの声で。

 空気が乾いた埃の匂いを運んでくる。

 魔族の残滓が焼けた不快な臭気。

 村人たちの熱に浮かされたような視線。

 すべてがヤツを「英雄」として見ている。

 ヤツがカイルの顔(ガワ)でその賞賛を浴びている。

 吐き気がした。


 私はゆっくりと息を吐いた。

 冷たい空気が肺をわずかに刺す。


「ごめん」


 私の声は自分でも驚くほど平坦に響いた。


「カイルがあまりに……カイルじゃないみたいなすごい力だったから」


 ヤツの顔から強張りが消えた。

 安堵。

 浅はかな読みやすい感情がそこにある。

 ヤツはカイルの顔で笑った。

 その笑顔はカイルのものではなかった。

 カイルはこんなふうに口角を吊り上げて笑わない。

 彼はいつも困ったように眉を下げて不器用に笑うだけだった。

 その不器用な笑顔が私の世界のすべてだったのに。


「なんだそういうことか。はは驚かせたみたいだな」


 ヤツは今度こそ私に手を伸ばす。

 私の頭を撫ようとする。

 その手がカイルの手が私に触れる。

 カイルの手。

 いつも鍛冶仕事で豆だらけでささくれていて

 それでも私に触れる時だけは驚くほど優しかった手。

 ヤツのその手は滑らかで何の苦労も知らない皮膚をしていた。


 一瞬。

 皮膚がヤツの体温に汚される。

 私はその手が頭に触れる寸前ヤツの腕の下をすり抜けるように一歩下がった。

 まるで熱い鉄に触れたかのように肌が粟立つ。


「きゃっ」


 わざと小さな悲鳴を上げた。

 足をもたつかせる。

 ドジっ子の「エリアナ」を演じる。


「わ私……ちょっと疲れちゃったみたい」


 ヤツの動きが止まる。

 その手が空中で行き場を失っている。

 それでいい。

 それ以上私に触れるな。

 その身体(ガワ)で。

 その手で。

 私に。


「今日はもう家に戻りましょうか」


 私はヤツの目を見ない。

 カイルの顔(ガワ)をしたその何かを見ない。

 村人たちにか弱い笑顔を向ける。

「英雄」の隣で恐怖に疲れた「ヒロイン」の顔を貼り付ける。


「……ああ。そうだな。帰ろう」


 ヤツが私の演技うそをカイルの優しさニセモノで受け止める。

 私たちは賞賛と畏怖の視線の中を並んで歩き始めた。

 ヤツの歩幅はカイルよりわずかに広い。

 カイルはいつも私の歩調に合わせて少しだけゆっくりと歩いてくれた。

 ヤツから漂う匂いはカイルが使っていた石鹸の匂いに別の生臭い汗の匂いが混じっている。

 カイルの匂いは違った。

 石鹸と鉄と炭の匂い。

 そして雨上がりの森の土のような安心する匂い。

 五感がヤツを「異物」だと警告し続けていた。

 私のカイルではないと。


 *


 夜。

 自室のベッドの上。

 手の中にある小さな碧い石を握りしめる。

 カイルが森で見つけてくれた石。

「お前の瞳の色と俺の瞳の色。二つが混じった色だ」

 そう言って不器用に笑ったカイル。

 この石の手触りだけが今私の世界が本物であることを証明していた。


 カイルは私の「信仰」だった。

 両親が死に村の厄介者として納屋の隅で生きていた私。

 石を投げられ「魔女の子」と呼ばれていた私。

 そんな私の前にカイルは現れた。

 何も言わずに私に投げられた石をその身で受け止めた。

 血を流すカイルに私は何も言えなかった。

 カイルはただ私の前にしゃがみ込みこの碧い石を差し出した。

「やる。綺麗だろ」

 カイルだけだった。

 私を人間として扱ってくれたのは。

 私に生きる意味をくれたのは。

 私の世界はあの瞬間に始まった。

 カイルが私のすべてになった。


 昨日。

 ヤツがカイルのベッドで目を覚ましたあの朝。

 私は一瞬で理解した。


 匂いが違った。

 カイルはいつも鍛冶場の鉄と油の匂いをかすかに纏わせていた。

 ヤツからは何も匂いがしなかった。

 無臭。

 それが何よりの異常だった。

 カイルの生きてきた証である匂いが消え失せていた。


 視線が違った。

 ヤツは私を見た。

 値踏みするように。

 品定めするように。

 私が演じた「ドジ」と「赤面」を満足そうに受け入れた。

 カイルはそんな目をしない。

 私のドジには呆れたように笑いながらいつも先に手が動いていた。

 転ぶ前に支えてくれるその手がいつもそこにあった。


 仕草が違った。

 カイルは朝起きた時必ず左手でこめかみを掻く癖があった。

 ヤツは両手で顔を覆い鏡の中の自分に見惚れていた。

 カイルが自分の顔を鏡でまじまじと見るなどあり得なかった。


 あれはカイルではない。

 私のカイルの身体(ガワ)を乗っ取った何者か。

 得体の知れない害虫。

 私の聖域を内側から食い荒らすゴミ。


 だから試した。

 朝食のスープ。

 カイルが唯一苦手としていたキノコのその苦味を凝縮させた毒。

 幼い頃「これは苦いから嫌いだ」とカイルが私にだけ教えてくれた秘密。

 カイルなら一口で気づいて顔をしかめるはずだった。

 ヤツはそれを「美味い」と言った。

 わずかな苦味しか感じなかった。

 あの革袋の毒はネズミ用ではない。

 ヤツの耐性を測るための試薬だ。

 私の世界を守るための最初の防衛線。


 私はヤツを弱らせるつもりだった。

 隙を作り情報を引き出す。

 本物のカイルはどこにやったのか。

 魂は。

 意識は。

 たとえ魂の欠片でも残っているのなら。


 だが今日のあの力。

 馬車を止め魔族を消し去ったあの光。

『創生魔法』。

『聖剣』。

 聞いたこともない。

 カイルが知るはずもない。

 あれはこの世界の法則から外れた力。

 伝説に聞く禁忌。

『転生術』。

 別の世界から魂を呼び寄せ既存の肉体に上書きする神の領域の魔法。


 ゾッと背筋が粟立った。

 もしそうなら。

 ヤツはどこかの悪霊が憑依したのではない。

 別の世界の「魂」がカイルの身体(ウツワ)に収まっている。

 そして本物のカイルの魂は……上書きされた?

 消滅させられた?


 手の中の碧い石を爪が食い込むほど強く握る。

 石の硬い感触が手のひらを痛めつける。

 その痛みが唯一私をこの場に繋ぎとめていた。


 返せ。

 私のカイルを。

 ヤツがカイルの顔で笑うたび。

 ヤツがカイルの声で喋るたび。

 ヤツがカイルの手で何かを掴むたび。

 私の聖域が汚されていく。

 カイルとの思い出が上書きされていく。

 カイルの身体(ガワ)がヤツの「モノ」にされていく。

 それが許せなかった。

 それだけは。


 ヤツが倒した魔族。

『虚無のゼノス』。

 魔王軍幹部。

 ヤツはその力を無邪気に晒し最悪の敵をこの村に引き寄せた。

 カイルが命懸けで守ろうとしたこの村を危険に晒した。


 カイルの身体を傷つけるわけにはいかない。

 あれは私の聖域。

 私とカイルが二人で生きてきた証そのもの。

 ヤツにあの身体をこれ以上好き勝手に使わせるわけにはいかない。

 魔王軍からあの身体を守らなくてはならない。

 カイルが守った村を。

 カイルが愛した人々を。

 私が守らなくては。


 ヤツを今殺すのは簡単だ。

 あのスープの毒の濃度を十倍にすればいい。

 寝ている間にカイルが教えてくれたワイヤで首を絞めればいい。

 だがそれではカイルの身体(ウツワ)が死ぬ。

 それはダメだ。

 それはカイルを二度殺すことだ。


 魔王軍はまた来る。

 あの力にあの「イレギュラー」な魂に気づいたから。

 ヤツらはカイルの身体を狙う。


 ならば。

 私はカイルの身体を守り切った上で。

 あの害虫をカイルの身体から追い出す方法を見つけなくてはならない。

 ヤツの力は必要だ。

 皮肉にも魔王軍からカイルの身体(ウツワ)を守るために。

 カイルが遺したものを守るために。


 私はベッドの下から小さな木箱を引き出した。

 開けると整然と並んだ小さな刃物。

 乾かした薬草の束。

 カイルが森で「罠の作り方」を教えてくれた。

「お前も一人で生きられるように」それが彼の口癖だった。

 カイルが鍛冶場で「金属の削り方」を教えてくれた。

「熱いうちに叩け。だが刃先は冷たく研げ」

 カイルが私に「生きる術」をすべて教えてくれた。

 彼が私を救ってくれたように。


 そのすべてが今カイルを取り戻すための私の武器になる。

 カイルがくれた優しさが私の刃になる。


 私は木箱を閉じた。

 ヤツを利用する。

 ヤツの「イージーモード」の幻想を私が完璧に演じきってみせる。

 ヤツが「チョロいヒロイン」として私を見るその油断。

 それがヤツの最大の弱点になる。


 カイル。

 必ずあなたを取り戻す。

 この身体(ガワ)にあなたの魂がもう無くても。

 この身体だけは私が守り抜く。

 ヤツが汚したこの聖域を

 最後に取り戻すのは

 この私だ。

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