第3話「贄」

「……ん」


 雨の音が聴覚を叩いた感覚に気づいて、ふと目を覚ました。

 薄暗い部屋の中で、聴覚がより鮮明に雨音を拾い上げていく。


「クレアちゃ……」


 声を発することはできたものの、かすれた自分の声を聞いて、自分が泣いていたのだということに気づく。

 深まった夜の空気が、一筋の涙が伝った跡が頬に残っていることを教えてくれる。


「お目覚めかな」


 私の聴覚が、柔らかで優しい声に心地よさを覚えた。


「ここは天国じゃないから安心して」


 涙の跡を自分で拭って体を起こすと、自分の身体は寝心地のよいベッドで休ませてもらっていたらしい。

 瞬きを繰り返して、自分の身に起きている事態を確認しようと思っても、辺り一帯は夜を表す闇夜が広がっている。


「男女が二人きりというわけでもないから心配しなくていいよ」


 私に話しかけてくれた男性は、蛍のような淡い光に包まれている。

 窓向こうは夜を示していても、暖かくて柔らかい光たちは私に夜が訪れたという感覚を与えない。


「精霊……?」

「光精霊が、シャロ家の魔女の容態をずっと心配していたよ」


 目の前にいる彼が着ている白いシャツの襟もとには、上等なネクタイが結ばれている。そのネクタイには細かい装飾が施されていて、自分が生きてきたシャロ家とは別世界の異国を訪れたかのような錯覚に陥る。


「本気で、精霊の生贄になったとは思ってないでしょ?」

「邪魔な私を殺すための言い訳……ですよね」

「それを理解しながら、十六年よく頑張ったね」


 殺されるためだけに生まれてきたと思っていたのに、頑張ったねと言葉をくれる人がいることにただただ驚いた。


「でも! あの高さから飛び降りて、無事でいられるわけが……」

「水精霊に、シャロ家の魔女を助けるよう命じたから」


 私が声を荒げようとしてしまったのを察した精霊の光精霊が、私の心をなだめるために寄りついてきた。


「シャロ家の魔女が体を打ちつけることなく、命を繋ぎ止めることができるようにとクレア様からご依頼がありました」


 動物の栗鼠りすのような容姿をしている光精霊の、ふわふわとした毛並みが頬に触れる。

 柔らかな毛並みが、何も怖いことは起きていないと聞こえぬ声を届けてくれる。


「そしてアッシュ家は、シャロ家の魔女様を助けることを決めた」


 光精霊は自身の体から光を発し、森で迷った人間を救ってくれることがある精霊。

彼らが発する柔らかな光を見ながら、私は心を落ち着かせていく。


「ここはアッシュ家。精霊との共存に反対する家系」


 彼がと言葉にした瞬間、部屋にいたときに存在した光精霊たちが庭へと急いで逃げ去ってしまった。


「ステラ様は精霊の生贄ではなく、アッシュ家の生贄と言った方がわかりやすいかな」


 私が体を休めていた部屋から明かりが消え去り、彼は部屋の明かりを灯すために燭台へと手を伸ばした。

 その明かりも眩しいと感じさせるほどの光の量はなく、夜の黒を汚さないように配慮されている。

 そんな配慮が用意されていたことを利用して、私は薄暗さのある部屋で涙を溢れさせる。


「とても怖い想いをさせてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」

「そんな……私は助けてもらった身で……」


 自分はずっと、感情を表現するのが苦手だと思ってきた。

 生贄として、感情を抑えていかなければいけないと思ってきた。


「怖かったよね」

「違……この涙は……」


 生まれて初めて、瞳から一筋の涙が溢れた。


「っ、うっ……死にたくなかった……」


 零れ落ちる涙を自分で拭おうとしたのに、流れ落ちる涙は彼が指で拭ってくれた。

 初めて触れる男の人の指の温かさに驚いて、そのまま泣くのを辞められたら良かったのに。

 私の涙腺は崩壊してしまったようで、彼から涙を隠すために私は両手で自分の顔を覆った。


「死ななくて……良かった……」


 泣きじゃくって言葉を紡ぐことができなくなるのだけは防ぎたいと思って、多くの酸素を取り入れようとするけれど上手くいかない。


「アッシュ家の生贄になるってことは、精霊との縁を切ることに協力する。そういうことだよ」

「……どんな理由があっても、私は生かされました」


 しっかりと言葉を口にしている風を装って、シャロ家の魔女としての凛とした表情を整えていく。

 私を救ってくれた彼に迷惑をかけないと意気込んで、涙を制御しようと試みる。

 頭では自分が何をしなければいけないのか分かっているのに、体は思う通りに涙を止めてくれない。


「ずっと、生きたいと願ってきたから……っ」

「嫌だったら、ちゃんと拒絶して」


 優しすぎる声に聴覚が反応すると、私は彼に優しく頭を撫でられた。


「生きてくれて、ありがとう。ステラ様」


 妹以外から与えられることがなかった温もりというものに、とうとう涙腺は崩壊してしまった。


「ふっ……うっ……怖かった……」

「十六年後に殺されるって宣告されたら、誰だって怖くなるよね」


 彼の手から与えられる温かさを、体が覚えてしまうんじゃないかと不安になった。

 借りている寝間着を涙で濡らすわけにはいかないという意志を働かせて、なんとか涙を止める。

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