第33話「理想、不穏の影」
一日の授業が終わり、夕陽が窓から差し込む頃、二人の緊張感を帯びた足音が古びた廊下に響く。
正也は旧校舎の見慣れない景色をぐるりと見渡し、一歩先を迷い無く歩き続ける櫻の後姿を目に留めた。
「本当にこんなところに来るんですかね」
「わからない。ただ、可能性は高いだろう」
「根城にするとか、そういう意味で?」
「それよりも、戦場になる可能性が高い。人目につかないところで戦いたいのはお互い同じだろうからな」
戦場。その単語が孕んでいる激しさと匂いを思い出し、正也は思わず身震いする。
しかし歩き続ける櫻はそんな正也の心情などつゆ知らず、スカートのポケットから一枚の札を徐に取り出した。
「要所にこうやって封呪符を貼っておくから、君も把握しておくように」
廊下の柱に貼られたそれを見て、正也は首を傾げる。
「でもこれ、近づけないようにするためのものなんじゃ?」
「ああ、そういうのもあるが、色々と種類があるのさ」
「なるほど、そういうもんですか」
「全部、杞憂に終われば良いのだが」
櫻は教室のドアに貼ったそれを見つめ、眉をひそめる。
正也もまた櫻と同様にそれを見つめ、小さくため息をついた。
屋上で二人を監視していた祓魔師と思われる人物――二人はそれが転校生の“筧リン”ではないかと強く疑った。
しかし彼女はついぞ怪しい動きを見せることは無かった。
そして、櫻は覚悟を決めた。
『先手を打とう』
「やっぱり、俺を狙ってるのか」
櫻は振り返り、顎に手を当てる。
「君の性質が知られているのなら、そうだろう。ただ、吸血鬼と契約を交わした私を制裁するという目的もあるかもしれない」
「本当に、そんな人たちが?」
「“神殿の守り手”。彼らがそうだ」
そう言った櫻は、窓の向こう、赤く輝く夕陽に目を細めた。
「彼らは代々少数精鋭で吸血鬼の王が眠る神殿の守護に当たっていた。しかし」
櫻は夕陽を眺めながら、まるでまだ痛む傷跡にそうするかのように指輪をそっと撫でた。
「あの事件をきっかけに、彼らの権限が強化された」
「それが、神殿事件?」
「その通り」
櫻は苛立ちと不快感を抑えるように頭を掻く。
「何者かによって封印が解かれ、再封印のために二十二名の精鋭が死んだ」
櫻は腰に手を当て、項垂れるように手で目を覆う。
「先輩?」
「何でもない。とにかくその後彼らは、規則に違反する祓魔師を独断で罰することが出来るようになった」
「罰する?」
櫻はすぐには答えず、顔を上げて正也に背を向ける。
その瞬間の櫻の鋭い目を、正也は見逃さなかった。
「どのようにというのは、彼らにしかわからない。誰も、それを語りたがらない」
「そんな、滅茶苦茶な」
「誰も、文句は言えないんだ」
そう言って小さく息を吐いた櫻――その背中が、正也には震えているように見えた。
「彼らは第二の神殿事件を防ぐためなら何でもやるだろう」
沈黙の中、風が窓を揺らす音だけが響く。
櫻は深呼吸をし、重い足取りで歩き始めた。
「行こうか。あとはこの階のどこかの教室で良い」
「……はい」
正也は櫻の後ろ姿とその手に握られた封呪符を見つめ、自分を守るように泣きそうな表情を浮かべた。
毎朝の決まり事となっていた読書の時間、昼休み、屋上で視線が交差する瞬間。
一週間の間、正也と櫻を包んでいたはずの安息は、今は影も形も無かった。
「先輩」
「ん?」
櫻は立ち止まり、振り返って小首を傾げる。
正也は沈痛さを湛えた瞳を彼女にぶつけた。
「全員が仲良くする方法は無いんですか」
「え?」
唐突に現れた沈黙の中、窓の向こうでカラスが鳴く。
「先輩?」
「ん、えっと、仲良くっていうのは?」
「え? いや普通に、戦わずに仲良く出来ないもんかなと」
櫻は正也の目の奥をじっと覗くが、真剣さに射抜かれて黙り込む。
「あの、なんかおかしいこと言いました?」
「ああいや、おかしくない。そうだよな。吸血鬼も祓魔師も仲良く。うんうん、そうあれば良いよな」
顎に手を当て、まるで子供の話を聞くように何度も頷く櫻を見て、正也は赤面する。
「あっ、えっと、なんだろうな、御伽噺的な意味合いじゃなくて! もっとこう、お互い歩み寄って上手いこと出来ないものかと思って」
正也の必死の弁明を聞き、櫻は不自然に口を隠して天井を仰ぐ。
「わかってるよ。わかってる」
そして、腰に手を当てて真剣な眼差しに変わった。
「君の言うことはもっともだ。今は各派閥が自分たちの利益を最大化することしか考えていない」
「そう、ですね」
「争いとはそういうものだが、楽しくないよな」
「すみません急に、馬鹿みたいなこと言って」
正也が頭を掻きながらそう言うと、櫻は目を細め、首を横に振る。
「馬鹿なんかじゃない。何度も言うがもっともな意見だ。吸血鬼でありながら人間との共存に憧れる、君ならではの意見かもしれないな」
「俺、ならではの」
その言葉が妙に胸に染みて、正也は思わず胸に手を当てる。
櫻はそんな正也を見て微笑み、そして次の瞬間にはその目に強い光を宿した。
「もしかしたら、だが」
「はい」
櫻はその瞳で数秒正也を見つめ、口を開いた。
「私たちにしか掲げられない、叶えられない“理想”があるのかもな」
正也は櫻の目の輝きに戸惑い、首を傾げる。
「それは、自由を手に入れるとか?」
「ああ、それもある。だけど違う。これは言うなれば――」
『キュッ』
――そのとき、微かな“音”が鳴った。
それは、ともすれば聞き逃してしまいそうな程小さな音。
誰かが、床を踏みしめる音。
「ッ!」
二人は即座に振り返り、その視界に捉えた。
階段に続く曲がり角、その向こうに消えて行った人影を。
「追うぞッ!」
勢い良く床を蹴った櫻。
引っ張られるように走り出した正也は、静かに唇を噛んだ。
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