第25話「声、闇の中へ」
まるで重機のような拳が振り下ろされる直前になっても、正也は一歩も動けない。
櫻を守るという目的、自分の存在意義を果たせないという現実を、受け入れることが出来ない。
『ああ、終わる』
やっと僅かに震えた心がそんな言葉を絞り出した直後だった。
「はっ」
目の前に広がる、青白い閃光。それは、櫻が武器を出現させる際の光に似ていた。
それが、正也の視界一杯に広がる。
目がじりじりと焼かれていく感覚と共に、身体が現実感を取り戻していく。
「目閉じてッ!」
櫻の手が正也の腕を力強く掴む。そして、そのまま否応なく引っ張っていく。
「ぐああッ! 小賢しいッ!」
正也の背後、狼男の発する轟音が鳴り響く。
青く上書きされた世界に混乱したまま、正也は、まるで初めてそうするように必死に脚を踏み出していく。
「早く出るぞ! 崩れる!」
狼男が壁を叩き、瓦礫が崩れ落ちる音が意識の遠くから聞こえる。
『何で、刃が通らなかったんだ』
正也の頭に浮かんできたのは、そんな疑問。
「走れッ!」
『何で俺は、傷ついた先輩に先導されているんだ』
腕を伝う櫻の手の温度が、やけに冷たく感じられる。
「諦めるな!」
外気の冷たさが肌を叩き、正也はやっと気付く。
視界が赤く染まっていない。
昨日と比べて、感覚も、景色も、全く違う。
次の瞬間、廃屋が崩れる轟音と砂埃が辺り一帯を包み込み、ガラスが無残にも飛び散っていく。
「正也君、大丈夫か?」
「は、はい」
正也は櫻の手を握る。そうすることで、自分の手の震えを嫌でも自覚した。
「奴は相当強い。近くに仲間もいるかもしれない。今は撤退を」
「は、い」
正也が言葉に詰まったのは、無残に積み重なった瓦礫の一角に目を奪われたからだ。
「化け物」
そう呟いた正也の視線に誘導され、櫻も振り返り、目を見開く。
瓦礫に潰されたはずの狼男が、まるで新雪を払うようにしながら瓦礫の山から現れた。
「逃がさねえよ。逃がさねえ」
月明かりの下、仮面の奥の眼光が鋭く光る。
二人は無言の内に後ずさり、十分な距離を取る。
「封印された王の血族だ。グレイヴの言ってた通りだ」
櫻は短剣を構えて正也の前に立ち、戸惑いと恐怖を殺気で塗り潰した。
「お前ら、正也君を使って、何をしようとしている」
「そんなん、決まってんだろうがァ!」
狼男は肩に刺さった板材を抜き、乱暴に投げ捨てる。
そして、舌なめずりをしながら正也を指差した。
「そいつを器にすんだよ」
「器?」
「かれこれ二百年だ、神殿とやらに封印されて。肉体はもう使い物にならねえ。だから、新しく丁度良い肉体を仕入れる」
「……外道が」
「恨むなら二百年前のご先祖様を恨みな! 殺すでもなく、見逃すでもなく、中途半端なまま棚上げし続けてきた自分のご先祖様をなァ!」
狼男の下卑た笑い声が森中に響き、木々を揺らす。
櫻は殆ど本能的に、正也の手を握ろうと右手を後ろに伸ばす。
「生憎その器は、もう心が折れたみてえだけどなァ?」
櫻は背後の正也を振り返る。
そして、唇を噛んだ。
「正也君! しっかりしろッ!」
「俺は、どうすれば良いか、わからない。これ以上は、ダメな気がする」
「何を……ッ、ふざけてる場合かッ!」
「ふざけてなんかない。やっと聞こえたんです。でも」
『勝ちたいか』
『その女を守りたいか』
『ならば我に委ねろ。何も考えるな』
「この声の正体、さっきわかったんです。だからもう」
正也の目が光を失い、奥行きも感じられない程くすんでいく。
「声? 何のことだ。正也君」
「俺から、離れてください」
そう言う正也のくすんだ目が、インクを落としたように朱色に染まっていく。
正也の纏うオーラが、震える程黒く、禍々しいものに変わっていく。
「正也君」
櫻は本能的に、数歩後ずさった。
「力を望み過ぎたな。どちらにせよもう限界だ。そいつを渡せ」
まるで勝利のパレードを一人で開いたかのような、ゆったりと重い足音が櫻に近づいていく。
「来るな」
しかし櫻は、顔を伏せ、短剣を逆手に持って顔の前で構えた。
「あのなぁ、もう終わったんだよ」
狼男は櫻を見下ろし、やれやれとばかりに頭を掻く。
「終わって、ない」
「ならお前一人で俺に勝てるか?」
聞かれ、弱さと覚悟が内でせめぎ合う。
それを自覚し、櫻はさらに強く唇を噛み締めた。
「まだ子供だ。死にたくはないだろう」
櫻の顎を、水滴が伝う。
それは、強く噛み締めた唇から流れ出た血だ。
「私のクソみたいな人生、やっと変わり始めたんだ」
「あ?」
「醜さも弱さも、全て笑って肯定してくれた。死にたがっていた私のことを、守ると言ってくれた」
血に混ざったのは、涙だ。大粒の透明が、血に染まって赤くなる。
「生きたいと叫んで、生きたいと応えてくれた」
櫻は短剣を強く握っていた両手から、ふっと力を抜き、狼男を真っ直ぐに見据えた。
「来い」
そして、腕を下ろし、脱力して、即応の姿勢を完成させた。
「負けない」
「……くはっ」
狼男は乾いた笑いを零し、一歩、二歩と後ずさる。
彼の本能が懸命に叫んでいるのだ。
“その女の間合いに入るな”と。
「人間! 人間ッッ! 心か⁉ 心なんだな⁉ 嫉妬するなぁ! やっぱりすげぇぇなぁああああッ!」
叫ぶように笑う。笑うように叫ぶ。
大声が地を震わせ、その声に驚いて突風が吹く。
それでも瞬き一つしない櫻を前に、狼男はだらんと腕を下ろして項垂れた。
「そんなに言うなら、大好きな彼にけりをつけてもらおうぜ」
狼男はそう言って、大きく、ゆっくりと息を吸い込む。
次の瞬間、櫻は大きく目を見開いた。
「オオオオオォォォ!」
まるで声で地を穿つかのような、全身を楽器のように使って発せられたその“異声”に、櫻の全身がビリビリと痺れる。
そして、全身を駆け巡る違和感に、櫻は思わず自分の手に視線を落とした。
「気付いたか?」
狼男は、仮面越しでもわかるくらい得意げな表情を浮かべていた。
「ケルヴァス様の血魂共鳴(ブラッドエコー)……見せてもらおうぜ。“王の力”を」
「まさか」
櫻の感じた違和感。それは、全身の血がふつふつと沸騰していくような感覚。
振り返り、そして、剣を落とした。
大きく、完璧な満月が、正也の背中の黒翼を照らし上げる。
正也の意識が、黒く、深く、“声”の届くところまで落ちていく。
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