第24話「人間らしさ、静寂」

 ――瓦礫の衝突を間一髪で避け、櫻は人一人やっと入れる隙間から廃屋の中へ駆け込む。

 瞬時に中の構造を把握し、まだ生きている壁を背にして息を殺した。


「見られて、ないはず」


 しかし、拳が風を切る音が耳をつんざく。


 直後、櫻の潜んでいる廃屋にガラスと木材の破片が飛び散る音が響いた。


 小さな廃屋の玄関とリビング、櫻と狼男が向き合う。


「もうやめにしようぜ。こんなこと」


 瓦礫を遠慮なく踏みつけていく音と共に、嘲るような声が櫻の恐怖心を誘発する。


 たたらを踏む。指先の感覚が鈍くなっていく。


「子供虐めるのは趣味じゃねえんだ」


「……私も、負けるのは趣味じゃない」


 しかし櫻は、もう一度強く地面を踏みしめた。

 目の前の絶望的な現実を逃げずに見据えた。


「俺は、愛で誰かを救えるとは思えねえ」


 狼男はそう言い放ち、唾を吐き捨てる。


「俺が見ている限り、人はいつでも現実には抗えないもんだ。心や意思なんざ無意味だ」


「そうか、お前はそう思うか」


 櫻はさらに低く構え、殺気を増していく目で狼男を射抜いた。


「お前が人間を語りたがるなら、問おう。人間らしさとは、何だと思う」


「はあ?」


「答えろ。最後の余興だ」


 聞かれ、狼男ため息をつきながらも渋々指を頭に当てる。


「論理だろ。人間はここでずっと勝ってきた。これ以外に無い」


「そうか、私は、心だと思う」


 自分で言い、自分に突き刺さった。

 櫻は、涙を堪えながら口を開いた。


「どれだけ努力して、どれだけ積み上げても、たった一度の感動に勝てなかった」


 櫻はふっと構えを解き、場違いな程普通に直立する。


「半吸血鬼の彼、半年前に喧嘩沙汰を起こしたんだ。原因は何だと思う」


「何の話だ」


「良いじゃないか。答えろよ」


「……知らねえよ。半分つっても吸血鬼だ。どうせ力を振りかざす以外考えてねえよ」


「そうか。彼はな、虐められていた男子生徒を守るために戦ったんだ」


 櫻の脳裏に蘇るのは、半年前のあの日、正也が一人の男子生徒の襟首を掴み上げ、鬼の形相で怒鳴りつける光景。


「普通見て見ぬふりをする。私もそうしただろう。だから、憧れた」


「なあ、無駄話はやめにしねえか?」


「そうだな、結論を言おう。お前は、私には勝てても彼には勝てない」


「何?」


「何故なら彼は、紛れもない、この腐った世界で唯一のヒーローだか」


『ガチャ』


 そのとき、櫻の右側、庶民的な音が響く。


「先輩、怪我は?」


 血契刀を片手に、正也がドアから入ってきていた。


 普通に、玄関を使って入ってきていた。


「は、え? 君、傷は?」

「え? なんか勝手に塞がりました。それより、後ろに隠れて」

「え、そこに大きな穴開いてるの、見えなかったか?」

「見えないよこっちは必死なんだからっ」

「どうやらそのようだ。ふふっ」

「何がおかしいんだよ。ったく」


 張りつめた空気から一転、思いがけず緩んだ風が入ってきて、狼男も戸惑いがちに頬を掻く。


「随分弱そうなヒーローだなぁ」

「ほら言われてるぞ! 言い返してやれ!」

「うるせえなあ気散るから黙ってろ!」


「あのな、盛り上がってるとこ悪いんだが」


 狼男はそう言い、正也の持っている血契刀を指差す。


「何だよ」


「それ、もう吸血鬼斬れないぜ」


 思いもしなかったその一言に、正也と櫻は面食らう。


「どういう、意味だ」


「どういう意味も何も、血契刀だろ? それ。久々に見て驚いたが、今は力を失ってる」


「何を……」


 そう言われ、正也が思い出すのは昨日のあの戦闘。


 血契刀は間違いなく機能していて、決め手となった。


 しかも正也の意識は今、昨日とは比べ物にならない程クリアだ。


「さあ来いよ。歩くのも面倒だ」


「ッ」


 挑発的に動かす指を見て、正也は即座に地面を蹴る。


 イメージするのは、昨日のこと。


 あのときみたいに、一振りで。


『あれ?』


 しかし、正也は気付いた。


『声が、聞こえない』


「ほらな?」


 正也は顔を上げ、声を失った。

 目一杯叩きつけた血契刀は、皮膚の薄皮一枚を切ることもなく、狼男の首と接着していた。


「なん、で」


 もう一度力を込める。しかし、傷跡一つ付かない。


「俺は、先輩を、守らなきゃいけないのに」

「もう良いだろう」


 ため息混じりの、そんな声が降りかかる。


「ガキはガキらしく、一瞬で死にな」


 目の前が真っ白になる。


「正也君ッ!」


 櫻の必死の悲鳴もどこか遠くに聞こえる。


 狼男の拳が、唸りを上げて振り下ろされる。

 その軌道を、正也は動けずにただ見ている。


 そして、何も聞こえなくなった。

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