第21話「不自由な心、夜の足音」

 櫻の小指から流れ出ているのは、紛れもない血。


 そのことを正しく認識した正也は、まるで弾かれたように飛び退いた。


「先輩、血が」

「ああ」


 慌てふためく正也とは対照的に、櫻は至って冷静にその指と血を見つめる。


「大丈夫。よくあることだ」

「よく、あること?」

「ああ、もうすぐだ」


 どこか虚ろな目を浮かべる櫻の意味深な一言。


 そしてその言葉通り、滴り落ちた血はたちまち空中に立ち昇り、一見読解不能な文字をしたため始めた。


「こうして緊急任務の内容を伝達するんだ」


 櫻の目の前に書き記されたそれを、櫻は生気の感じられない目で追っていく。


「隣町の山、廃村に大柄の吸血鬼が一体、潜伏しているとのことだ」


 正也は、淡々と読み上げる櫻の体温が徐々に冷えていくのを感じ取る。


 その光景に、燃え滾るような理不尽さを覚えた。


「こんなの、あんまりだろ」

「言っただろう。私には言い訳している時間も無い」

「違う。こんなの、奴隷の首輪みたいなもんだろ。痛みで縛り付けて、無理やり仕事を押し付ける」

「それ、言えてるかもな」

「おかしいと思わないのかよ⁉」

「おかしいと思うよ」


 さらに言葉をぶつけようとした正也だったが、櫻の今にも泣き出しそうな目に射抜かれ、固まってしまった。


「だが、それはあまりに酷だろ」


 何も言えないでいる間に、櫻の沈痛な声が心に染みていく。


「私は既に不自由なんだ」


 言葉を選びあぐねている間に、櫻は立ち上がる。


「さあ、行こう。もしかしたら王の眷属に関する情報を手に入れられるかもしれない」


 そう言って痛みを隠しきれない表情の櫻に、正也はただ目を奪われる。


「やるしかない。仕事なんだ。わかるだろ?」


 正也は僅かに唇を噛み、小さく頷いた。


~山中~


 まるでカラスの羽にすっぽりと覆われてしまったかのような暗闇の中、二人が雑草を踏みしめる音とランタンが揺れる音だけが響いている。

 肌冷たい風が木々の隙間を縫って正也の首筋を撫で、顔をしかめるのと同時に櫻の様子を伺った。


「本当に、こんな山の中に?」


 正也の前を歩く櫻は青い炎を灯すランタンを握り締め、それが僅かに地面を照らしている。


「ああ、この先の廃村だ。倒壊の危険がある分、昨日より周りの状況に気を配るのが大事だぞ」


 淡々と言葉を紡ぐ櫻の背中を見て、正也の心がチクリと痛む。


「いつもこんな夜に、一人で?」

「ああ、任務だからな。もう慣れたよ」

「でも俺は、夜苦手だし、嫌いです」


 その瞬間、櫻は立ち止まり、振り返って目を瞬かせる。


「目、見えないのか?」

「え? あぁいやいや、吸血鬼だし、暗いところはちゃんと見えますよ。ただ」


 正也はふと足元に視線を落とす。

 いつの間にか踏んでしまっていた一輪の花は、目を凝らしてもどんな色かわからなかった。


「夜って、全部真っ黒にするじゃないですか」


「え?」


 正也は花から足を離し、櫻の赤い血がまだ付着しているはずの手を見下ろす。


「それまでどんな色でも、全部黒くなる」


 同じようにどれだけ目を凝らしても、その赤色を見つけることは出来なかった。


「悪戯で黒いペンキをひっくり返されたみたいな、理不尽で、好きじゃない」


 櫻はそんな正也を見上げ、ぽかんと口を開けていた。


「へ~」

「何ですかその反応」

「そんなこと考えたことなかったな」

「そうですか」

「ただ……え? 君、意外と文学の、ふふっ、え? そうだったのか」

「は?」


 櫻は口に手を添え、身体を折り曲げて噴き出すのを懸命に堪える。


「いや、意外とポエマーな一面があるんだなと、思って」

「なっ……! ポエムじゃねえし! 馬鹿にしてんのか!」

「馬鹿にしてないしてない。ただ、あははっ、君も充分中二病だ」

「俺は……はぁ、はいはい。もう良いよ何でも」


 しっしっと手を振る正也を、櫻は満足げな目でじっと見つめてから振り返る。

 気付けば正也は、櫻と並んで歩き始めていた。


「……」


 正也は、何か勘違いしている様子の櫻に一言言ってやろうと彼女を見下ろすが、その自信満々で楽しそうな目を見て毒気を抜かれてしまう。


『まあ、元気になってくれたんなら良いか』


「時に、黒いペンキ君」

「うるさっ」

「血の匂いがしないか?」

「え?」


 真剣な眼差しに変わった櫻に言われ、正也は鼻を利かせ、立ち止まる。


「する」


 それは、背筋をなぞる冷たい風に乗ってやってくる。


「この先に、いる」

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