第6話「誘惑、拒絶」
「契約?」
反射的に聞き返し、櫻は深く頷く。
「ああ。私が君に血を提供する代わりに、君は私の吸血鬼退治を手伝う。ウィンウィンだと思わないか」
呆気に取られる正也だったが、冷たい風に撫でられることで現実に引き戻される。
「何で、そんなことを」
櫻は自嘲的に笑い、風に揺れるカーテンに目をやった。
「過去、任務に赴いた祓魔師が二十二名戦死する悲惨な“事件”があった」
櫻は笑顔を閉じ、僅かに俯く。
「そのとき、私は何も出来なかった」
そう言う櫻の雰囲気が重いものに変わる。
「だから、強くなろうと?」
「ああ」
「じゃあ尚更、何で俺なんだ」
正也は切実な思いを込めた目を櫻に向ける。
視線と視線がぶつかり合い、数秒の沈黙が生まれる。
「君は特別だ。一目見たときからわかっていたよ」
「そんなの、俺には無い」
「いいや。あるんだ」
たじろいでしまうような真っ直ぐな瞳に気圧され、正也は押し黙る。
「それに、あのときの吸血から三日」
そして櫻は、ここぞとばかりに正也を指差した。
「君はもう、我慢出来ないはずだ」
疑うものなど何も無いとでも言うような、自信満々な瞳が正也に向けられる。
「これからは我慢せず、いつでも私の血を吸って良い」
そう言い放つ櫻の艶やかな首筋に、正也の視線が吸い込まれる。
しかし、湧き上がってきた支配欲を、嫌悪感で切り離した。
「お断りします」
一瞬、沈黙。
櫻は、口をポカンと開けて目を瞬かせた。
「いや、だから、これからはいつでも」
「嫌です」
「なっ! 何でだ! 私の血、吸いたくないのか⁉」
「正直言うと、吸いたいですよ」
「だったら!」
「それでも」
正也は全てを諦めたように、深く項垂れた。
「力は貸せない」
「何故、そんな、頑なに」
「もう、この力で誰かを悲しませたくない」
正也はそう言い、顔を上げる。
目に映るのは櫻ではなく、過去、自分が傷つけてしまった少女の姿――。
「今、俺のことを殺しますか」
櫻は小さく、音を立てて空気を吸い込む。
そして、その猫のようなつり目を大きく見開く。
しかし、重苦しい空気は変わらない。
「わかった」
櫻は左手をドアにかざす。すると、ドアに貼り付いていた封呪符が力無く剥がれて床に落ちた。
「悪かったな」
次に深く項垂れたのは櫻だ。彼女を一瞥し、正也は鞄を肩に掛ける。
「……では」
「待ってくれ。最後に」
正也がドアに手を掛けたそのとき、櫻の悲痛な声が背中に突き刺さる。
「何ですか」
櫻は悔しさに肩を震わせるでもなく、ただ脱力し、薄ら笑いを浮かべていた。
「今日これから、私は戦いに身を投じる」
櫻の震えた声だけが空気を揺らして止まらない。
「気が向いたら、助けに来てくれ」
「……さよなら」
正也は櫻から目を逸らして呟き、ドアを開け、後ろ手に閉める。
誰もいない廊下を歩き出す。途端に現実の空気が、正也の肺に流れ込む。
歩いた。
歩いて、早歩きに変わった。
「どうせ、何も変わらないんだ」
自分に言い聞かせたその一言が、正也に櫻の最後の表情を思い出させる。
諦めと悲観が混ざったそれが過去の自分の姿と重なり、大切な人を傷つけた過去が蘇る。
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