2.逃走と追手
ウルスの身体能力と方向感覚は、超人的とでも表現すべきものだった。
薄暗い森の広がる山を抜け、敵の追手を撒き、二人は街道の支線へと出る。
そして二人は、徒歩で宿場町へと辿り着いた。
途中からはフィプリオが案内したが、そこは彼が今回の盗掘に当たって拠点にしていた街だ。
時刻は昼下がりで、太陽がそこそこに西に向かって傾いている。
「ここまで来れば大丈夫かな。下ろすよ」
人の行き交う広場の石畳に下ろされながら、フィプリオはもはや感嘆していた。
女となって体重が多少は減っているであろうとはいえ、ウルスは彼一人を前に抱えたままこの距離を歩き通して見せた。
しかも、多少の汗はかいてはいても、疲れ果てた様子がない。
半ば呆れて、彼は言った。
「お前……マジで体力バケモンだな……」
「僕も女神に仕える者だ、それなりに鍛えてはいる」
そう答えて彼は、フィプリオの顔をまっすぐに見て尋ねる。
「それより、君、名前は?
僕はウルス・イナンノ。さっき聞いていたかも知れないけど」
「あ、俺は……フィプリオ・クラルキ……」
一瞬迷ったが、迂闊に偽名を名乗ってもややこしいと考え、本名を名乗った。
ウルスは少し驚いたような顔をして、彼の名を呼ぶ。
「フィプリオだね、分かった」
そう口にするウルスについて改めて観察すると、装束こそ古風だが、やはり顔立ちは美しく、美男子といってよい。
体つきは逞しく、古典期の彫像が肉を得て歩いているかのようだ。
腰に下げた剣――フィプリオが遺跡で見つけた剣だ――と併せて、その佇まいは古代の戦士を思わせた。
そうした視線を向ける彼に、ウルスが再び尋ねる。
「その、フィプリオ。疲れてるところで悪いんだけど、色々と分からないことがある。君もだろうけど……」
「お、おぅ……」
「でもここに長く止まっていると、さっきの追っ手が来るかもしれない。
出来れば隣の町くらいには移りたいと思ってる」
「あーいや、その前に俺が取ってる宿に……
あー!?」
フィプリオは宿のことに言及したところで思い出し、絶叫した。
鍵は荷物の中に入れていた。
つまり、あの遺跡に置き去りにしてきたことになる。
ウルスが、顔色を変えずに訊ねてくる。
「宿を取ってるのかい?
じゃあそこで引き払う準備をしつつ、話せることは話そう」
「……宿はここで取ったけどな……」
フィプリオは
「部屋の鍵はあの遺跡に置いてきちまった。
金も大半は宿の金庫に預けてるから、鍵代を払おうにも今の俺は文無し。
部屋にも入れねえぞ」
「そうか、君の人相が変わっているとなると……
鍵の紛失を訴えても詐欺か何かを疑われるかも知れないね」
ウルスは自身の
「なら少し芝居を打って、君はフィプリオ本人の妹ということにしよう。
筆跡は変わってないだろうから、本人名義の委任状を作れるはずだ。
妹としての偽名も考える必要が――」
「いやそれより……」
遮って、フィプリオ。
「喉渇いたんだが……腹も減ってねぇ……?」
「あ、ごめん忘れてた。ひとまず、彼らからくすねてきたこれを食べよう」
ウルスはこともなげに、腰の帯から下げていた袋を手に取り、中身を取り出して言った。
彼が布の包みを開くと、握りこぶし二つ分ほどの大きさのスイトの果実と、携帯食料の包みらしきものが現れる。
フィプリオは驚いたが、同時にやや呆れ、
「お前だいぶ手癖悪りぃな……俺も人のこと言えねぇけど」
「非常時だからね。どこか隅の方で食べつつ、少し状況を整理しよう」
二人は広場の端の方の縁石に腰掛けて、携帯食料を取り出した。
砕いたパンとドライフルーツ、干し肉を獣脂で棒状に固めたもので、独特の食味がある。
本来は器に入れ、湯に溶いて食べるのだろう。
フィプリオはスイトの果実に豊富に含まれた水分を吸い、ねちねちと携帯食料を噛んで人心地付きながら、ウルスに尋ねた。
「……そもそもさ、お前何なんだ?
いや名前は聞いたけど、あそこにどうやって入った?」
「えーと、それはややこしいから、後で説明する。必ず。
それより、君だフィプリオ。君は何者で、あそこで何をしていた?」
そこを聞かれて、フィプリオは一瞬、逃亡を考えた。
だが、ウルスは今まで見たように体力の化身であり、また帝国の役人でもなさそうに思われた。
彼から今また逃げるというのも、あまり現実的ではない。
「え……い、遺跡の……調査」
フィプリオの出した結論は、言い逃れだった。
そこに、ウルスが食いつく。
「遺跡とはどういう意味だい?
あの女神の壕は、建設途中だった。遺跡呼ばわりするには新しすぎると思うけど……
まさか、さっき君が言っていた創造暦6千とかっていうのは、あれは本当に?
僕があそこに入ったのは、創造暦で4983年のことだ」
その数字を聞いたフィプリオは、自らの知識に照らして訝しんだ。
「4983年って、『破局』の年じゃねぇか」
「破局……確かに僕は、大噴火と邪神の眷属の殺到から逃れて、あの地下壕に入ったんだけど……
そうか、それほど大きな災害だったのか」
大真面目な口ぶりに、フィプリオは眉根を寄せつつ質問を重ねた。
「マジでお前古代人……? あそこで冬眠でもしてたのか?」
「あれから千年以上経ったということなら、その表現も間違いじゃないだろうけど」
歴史にはそれなりの
フィプリオは本当に冬眠していた古代人に教え諭すつもりで、簡単に説いた。
「人類はあれで衰退して、そっからまた復興してきたんだよ」
「僕は相当長い期間眠ってたみたいだね……
まぁ大層驚いたけど、認識はすり合わせられたと見ていいかな?」
「えーと……お前がどうやって寝てたのかはさておくとしてだ」
フィプリオは一呼吸して、ウルスに尋ねた。
「それより、俺を襲ってきたあいつらは何なんだよ?
帝国の役人じゃねぇみてーだし」
「この袋留めのボタンに刻んである印、何か分かる?」
彼は携帯食料が入っていた袋を指して、質問を返してきた。
フィプリオはその木のボタンに顔を寄せ、描かれている印をまじまじと眺めた。
「……」
親指の先ほどの大きさのボタンには、水平の直線と木が描かれていた。焼印だろう。
水平線は木を中央で上下に両断しており、幹と枝葉だけでなく、地下に伸びた根も図示しているらしい。
フィプリオはそれを観察しつつ、首をひねった。
「……どっかで見たような」
「分からないなら仕方ない。それより、話を戻そうフィプリオ。
君は本当に壕の調査をしていたのかい? 一人で?」
「え」
しつこい。
フィプリオはそう思いつつ、彼が続ける言葉を聞いた。
「僕が眠りに着く直前、帝国の都は火山の噴火と、邪神の眷属の大群の襲撃とに見舞われた。
都は降り注ぐ灰に埋まり、僕が避難したあの地下壕――女神の壕も入口が塞がって出られなくなっていた。
僕は剣となって眠りにつき、そして君が僕を手に取ることで眠りから覚めた……筈なんだけど」
「いや……本当に調査だし……」
盗掘してました、とは言えない。
フィプリオが最後の一口を飲み込みながら口ごもると、ウルスは軽く嘆息し、
「……なら、この話は一旦置こう。
とりあえずは、宿屋に見せる委任状だ。この町には神殿とかないのかい?」
神殿は『破局』を境にほとんどが崩壊し、現存していない。
神殿に勤める神官たちが果たしていた実務的な役割も、現代では国家の役人や民間人が果たしている。
フィプリオは少々呆れつつも、説明した。
「神殿……いや古代人ならしょうがねぇけど、今は神殿なんて無いんだよ」
「無いの……!?」
「現代で女神さまに拝むんなら、神殿じゃなくて教会だな。
で、委任状は教会でも無くて、
「……何というか、分からないことだらけだ」
人間離れした能力を持つウルスが多少なりとはいえ
彼は気分よく、告げる。
「ま、分からねえことは俺に訊けよ、授業料は……
そうだな、その首飾りとかでどうだ?」
その後、二人はウルスの身に付けていた金の首飾りを――彼の同意の元――売り払い、幾ばくかの金を手にした。
その金で公証人から委任状の用紙を買い、フィプリオの妹の名義で委任状を作成する。
それを使ってようやく宿に借りた部屋へと戻り、彼女は一部の荷物やまとまった金を取り戻すことができた。
部屋の中で荷物をまとめながら、フィプリオはウルスに訊く。
「さっき後でっつったけど、お前、あの遺跡のどこで寝てたんだよ。
古代人ってのは1400年も寝てられるもんなのか? クマだって冬の間だけだぞ」
「……ここならいいか」
ウルスがそう
「――!?」
彼の姿は
「え……おいどういう手品だよ……?」
フィプリオが驚いて剣を持ち上げると、
(聞こえるかな、フィプリオ)
「うお!?」
頭の中に声が聞こえて、彼は驚き剣を放り落とした。
するとまた次の瞬間、剣の柄から泡のようなものが凄まじい速度で膨れ上がり、あっという間に剣を帯びた人間の姿となって現れる。
今度はフィプリオが絶句する番だった。
「…………!?」
それを見たウルスは小さく両腕を広げ、
「見ただろう。
僕は、女神の加護を与えられたこの剣と、一体化した存在になっているんだ。
僕がこの『涙の剣』であり、この剣が僕ということになる。
剣の状態なら僕は歳を取らず、1400年眠ったままでいることも出来たんだろうね」
「え……生まれた時からそんなんなのか……?」
驚愕冷めやらぬ様子のフィプリオに対し、彼は説明を続けた。
「儀式に志願してこうなったんだよ。だから、僕が剣になって、君に持ってもらうこともできるけど……
今は人間でいた方が、荷物を分担したりで便利だろ?」
「はえー……お前見世物小屋で金取れるぞ」
「バチが当たるよ……それより急いだ方がいい。
荷物の中に鍵があったって話だから、敵がこの宿を特定するのにさほど長い時間はかからないだろう」
「あ、そうだな……うん」
そしてウルスは、まとめた荷物の半分を背負いながら告げる。
「それじゃあ早速で悪いけど、隣の町まで急ごう」
「あ、悪りぃその前にさ」
「前に?」
促す彼に、フィプリオは荷物を下ろしながら要求した。
「やっぱ……さっとでいいから風呂入りたくなった。汗かいたし」
「……今から浴場に?」
「いや、宿に水浴びる部屋くらいならあるから」
「そうなのか……!?」
「ホントに古代人だなお前……まぁ別にいいけど」
部屋を出かけた所で、フィプリオはウルスに呼びかけた。
「お前も入れば?」
「……そうしようかな」
二人は部屋に鍵をかけ直し、宿の共同浴場を借りることになった。
もっとも、さほど大きな宿でもないため、男女それぞれで三人が限度の狭い浴室だったが。
ウルスのいた時代には、風呂といえば公衆浴場が主流だったはずだ。
宿に置かれている風呂はその縮小版ともいえる。
ただし風呂釜などは無く、燃料で加熱された湯が出てくることもないため冬場は厳しい。
そして脱衣所に入ろうとして、彼はウルスに肩を掴まれる。
「!?」
どきりとして振り返ると、神妙な顔をして、ウルスは言った。
「フィプリオ、こっちは男湯だ。
今の君は女湯に入るべきだと思う」
「……時間的に他に誰もいないだろうし良くね?」
「万が一他の人が入ってきたときに僕が困るんだ」
「…………わかった」
強く言われ、フィプリオは
とは言え、裸になれる環境で自身の肉体に起きた変化を確認したいという意思も強まっていた。
(まぁ……誰もいねぇし大丈夫だよな……?)
壁の穴に置かれた簡易ランプを灯し、薄暗い脱衣所で服を脱ぐと、大ぶりな乳房がぷるりとまろび出る。
男だったころなら欲情していたかも知れないが、今の彼には負の感情の方が強かった。
(……やっぱ邪魔だなこれ……女はよくこんなもんぶら下げてんな……)
下を脱ぐと、脚と脚の間に当然あるべきだったものが無い。
改めて大きな喪失感が、フィプリオを襲った。
(まじで無くなってる……俺のちんこ……!)
柔らかい女性器の感触を、思わず手指で確認してしまう。
彼――いやもはや、彼女と呼ぶべきだろう。
彼女は自分が変態になったかのような感覚に陥った。
(……こうしてても元に戻るわけじゃねぇしな……)
気を取り直して浴場に入り、手早く済ませようと栓を捻ると、頭上の穴の開いた銅管から水が出てくる。
水は冷たいが、燃料で加熱された湯を使えるのは大浴場か、貴族の邸宅くらいのものだ。
体が水で冷えて、彼女は尿意を思い出した。
(そうだ小便しねぇと……この体になってするの初めてだな……)
他に誰もいないのをいいことに、フィプリオは浴場で放尿した。
勢いよく小水が下方へと噴射され、足首に生温かさが伝わってくる。
(こういう角度で出んのか……)
足をがに股に広げ、まじまじと下を見てしまう。
女が小用を足す所など見たことがなかった彼女は、感動さえしていた。
だが尿が途切れると我に帰り、
(いかんいかん、ちゃんと洗わねぇと……)
備え付けられていたペースト状の
(クソ、髪死ぬほど伸びてんな……上がったら適当に切るか)
背の中ほどまで伸びた長い髪を何とか――自信はないものの洗い、次は持ち込んだ布に石鹸を付けて体を洗う。
肌の感触は全体的に柔らかく、彼女が男だった時に何度か味わった他の女の感触を思い出すものだった。
(マジで女になっちゃった……俺……)
女性器も含めてあらかた洗い終えると、彼女は風呂場を出て体を拭いた。
(……女になるわワケの分からん奴らに追われるわ……
さっさと何とかしねぇとな)
拭き布で髪をがさがさと拭いて服を着ると、フィプリオは長い髪が乾くのに時間がかかることに思い至った。
部屋に戻ると、部屋の前で待っていたウルスに告げる。
「おいウルス、髪切ってくれ」
「え、何で……?」
言われた彼は、意外そうに理由を聞いてきた。
「全然乾かねえし鬱陶しいんだ。その剣でバッサリ……肩のあたりまででいいや、斬ってくれ。
ナイフは遺跡に置いてきちまったからさ」
「あ……いやちょっと……それは……」
目を逸らすウルスに、尋ねる。
「何だよ。何か問題あるか?」
「いや、不便かもしれないけどね? 慣れると色々とお洒落ができて便利――」
「俺はそんなんいらねぇの! 邪魔なんだよ!」
声を荒らげるフィプリオに、彼は弱々しく謎の抗弁をする。
「そこを何とか……」
「え……何お前……まさか俺が髪切ったらイヤなの?」
食い下がる有様を不審に感じた彼女が問うと、ウルスは歯切れも悪く答えた。
「……切るのは勿体無いかなぁ……って……」
「……長いままにしとくとやる気が出る的な?
わかんなくもねぇけど、俺中身男だぞ」
「いやそういうわけじゃ」
「じゃあ切ってくれよ」
「あぁあああ……」
「わーったよキメぇな!?」
彼の態度に我慢ならず、フィプリオは妥協した。
そして、代償を提示する。
「……髪このままにして欲しきゃ、俺の言うこと何でも聞くか?」
「理不尽なことは拒否するよ」
「髪切る程度のことがそんなに理不尽かよ!?
何なんだよお前マジでキモ……」
彼女は
そして街道に出た二人は、東の宿場町を目指して歩き始めた。
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