女子プロレスラーと恋愛するだけの話 第二部

円つみき

第1章 思い違いと、すれ違う思い

『沢城さやか。女子プロレス団体「ブレイズ」の所属レスラー。ブレイズ・アイアン・ウィル王座(通称BIWCビーウィック)のタイトル保持者。本校○○年度卒業……』


「……だとさ。広瀬ちゃん、次はこの沢城さやかさんにお願いしてよ」

「マジですか……プロレスラーじゃないですか。しかもチャンピオン?すごいっすね」

 部長から広瀬ちゃん、と呼ばれた広瀬悠一郎は太った体を揺らしながら、沢城さやかの資料に目を通した。

 プロレスに縁のない広瀬にとって、自校の卒業生にプロレスラーがいるというだけでも驚きだった。

 一昨年前から始まった「卒業生との交流会」は、社会で活躍する卒業生を招き、生徒の進路意識を高めることを目的とした学校行事である。

 広瀬は、その渉外担当だった。


 広瀬悠一郎、36歳。身長172cm、体重95kg。独身。

 この高校に赴任して6年目になる。周囲からは「いい意味で口が悪いアザラシ」と評されていた。

 口のうまさが買われ、昨年度から教員の誰もが敬遠する「総務部の渉外担当」に配属されることになった。


 プロレスに関しては、知識も興味もなかった。

 広瀬にとっては、プロレスとは「ショー的要素が強い格闘技」程度の認識でしかない。

「プロレスかぁ、怖ぁ……。でも、お仕事ですぞ」と自分に言い聞かせ、早速、沢城さやかにアポイントを取るべく受話器を取った。


 プロレス団体「ブレイズ」の事務所に電話をかけ、応対に出たスタッフに要件を伝えた。

 すると偶然、沢城さやか本人が事務所にいたようで、電話を代わってもらえることになった。


「お忙しいところ申し訳ありません。私、本校で総務を担当しております広瀬と申します」

 プロレスラーと話すのは初めてで、広瀬は幾分か緊張していた。型どおりの挨拶のあと、講演依頼の主旨を説明し、訪問の可否を伺う。

 沢城は最初こそ警戒していたものの、交流会の趣旨を理解すると、声のトーンが次第に明るくなり、快くアポイントを了承してくれた。


 通話を終え、広瀬は受話器を置こうとした──が、力加減を誤って電話機を「ガチャーン!」とひっくり返してしまった。

「すすすいません、すいません……!」

 慌てて取り繕う姿に、周囲の教員たちがくすくすと笑っていた。


 ――――


 翌週、広瀬はプロレス団体「ブレイズ」の事務所にむかっていた。

 その事務所は、金山駅近くのオフィスビルの中にあった。 広瀬の職場から、車で1時間もあればつくはずだった。

「まずい。思ったより道が混んでた。じ、時間が…」

 汗を拭きながら慌ててエレベータに乗り込む。 目的階のボタンを連打してみたが、エレベータの速度は早くならなかった。


「すいません。本校の広瀬と申します。あのっ、さ、沢城さんと打ち合わせに……」

 慌てていた広瀬は、勢いよくドアにぶつかってしまい、「ガン!」という鈍い音を響かせた。同時に「あだあ!」という叫び声も共鳴する。

 所内の視線が一斉に彼に集まった。必死に頭を下げて謝る広瀬の姿は滑稽で──それがかえって微笑ましかったのか、スタッフたちは笑っていた。


 応接室に通されて待っていると、少し遅れて沢城さやかが入ってきた。

 茶色がかったミディアムのストレートヘアに、白いブラウスとスーツという姿。

 広瀬は、思わず目を見張り、言葉を失った。てっきり、ジャージかトレーナー姿だと高をくくっていたからだ。

 その広瀬の態度を不審に思ったのか、さやかの表情が曇る。

「す、すいません。あのっ、私、本校の広瀬です。いつもお世話になっています」

 慌てて挨拶をしたが、曇ったさやかの表情は崩れることがなかった。


 さやかは優雅にお辞儀をし、名刺交換も手慣れた様子でこなした。

 真正面からまっすぐ立つその姿は、172cmの広瀬よりもわずかに背が高い。

 彼女の印象は、広瀬がインターネットや公式資料で見たそれとはまるで違っていた。

 リングコスチュームの写真とは異なり、目の前の彼女はスーツに身を包み、姿勢までも美しく整えられていた。

 シャープな輪郭に、細く柔らかな目元。プロレスラーとは思えないほど華奢にも見える体のライン。

 そして、一つひとつの所作が美しく、洗練されていた。


 ──チャンピオンというよりも、雑誌のモデルのようだった。


 広瀬はほんの一瞬さやかに見とれてしまったが、すぐに我に返り、今回の依頼について説明を始めた。

「……ですから、生徒たちには、自分の将来を現実的に考えてもらうために――」

「生徒たちは体育館でこのような配置で座らせて――」

「校長の紹介の後、こちらから壇上に上がって――」

 広瀬は仕事の話になると、つい力が入ってしまう。身振り手振りも交え、あたかも体育館の中にいるように臨場感たっぷりだ。

 つい先ほど、自分が動揺していたことさえも忘れるほどだった。


 さやかは真剣に聞き入り、ときおりメモを取っていた。

 話を聞き終えると、「私でよければ講演会をさせていただきます」と快く承諾してくれた。

「ありがとうございます!」

 広瀬は思わず身を乗り出し、テーブルに両手をつくと、勢いあまってテーブルをひっくり返してしまった。

 ガチャン、と茶器が転がり、お茶が床に広がる。同時に「ぎゃあ!」と情けない声を上げた。

「すいません、すいません!」と慌ててハンカチを取り出して拭こうとしたが、今度は手がもつれて鞄を落とし、中身が床に散らばった。

 さやかは立ったり座ったりして忙しい。


 ようやく事態を収拾すると、広瀬が「えへへ……」と照れ笑いを浮かべた。


 さやかはその緩んだ顔を見て、ふと微笑んだ。

「広瀬さんって、不思議な人ですね」

「え?」

「最初はちょっとふざけているのかなって思っていました。だけど、真剣に話をされてるときは、とってもわかりやすく説明されて、すごいなって思ったんです……それなのに、またふざけてるみたいで」

「ご、ごめんなさい。お気を悪くさせてしまいました?」

「いえ、むしろ安心しました。先生って、怖いイメージがあったので」

「そうでしたか。私、怖かったですか」

「いえいえ。そんなことはないです。広瀬さんは全然怖くありません」

 さやかは優しく微笑む。広瀬もつられて顔がほころんだ。


「高校かぁ」 ふと、さやかがぽつりとつぶやいた。「懐かしいです」

「ん? 何か言いました?」

「いえ、私にも高校時代があったんだなって思いました」

 広瀬は笑ってうなずいた。

「懐かしいなぁ……私、バレーボール部だったんですよ」

「え?意外ですね」

「ふふ。あんまり強くなかったんですけどね」

「ふーん……」


(どうして、バレーボール部からプロレスの道に行ったんだろう?)

 そんな言葉が頭をよぎった――が、時計に目をやると、慌てて姿勢を正した。

「ごめんなさい、つい話し込んでしまいました。沢城さん。今日はありがとうございました。講演会はよろしくお願いします」

「こちらこそ。ありがとうございました。講演、がんばりますね」

 名刺を交わしたときよりも、ずっと穏やかな笑みが二人の間にあった。


 広瀬は事務所を出てからも、彼女のことを考えていた。

 ――「広瀬さんって、不思議な人ですね」

 ふとした彼女の言葉が、胸に残っていた。

(不思議な人……か)


 広瀬のさやかに対する最初の印象は、あのリングコスチュームに身を包む彼女の写真だった。

 プロレスラーであり、チャンピオン……しかし、今日、初めて会った彼女は、その印象とは別人のようだった。

 たしかに、スーツ姿の彼女は凛々しくあり、まるでモデルのような立ち振る舞いを見せていた。しかし、彼女の微笑みには、どこかかわいらしさも感じていた。

 その、ころころと変わる表情と印象に、広瀬は首を傾げた。

(沢城さん。あなたも不思議な人ですよ)

 広瀬は彼女の柔らかい笑顔を思い出し、胸にその余韻を残したままにしておいた。


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