第六章 ほどけない記憶
――桜 side――
あの再会から2日後。私は迷わず遥斗さんにメッセージを送った。
『遥斗さん、この間は話できてよかったです。もしお時間あれば、近いうちにご飯でもどうですか?』
すぐに返信が来た。
『もちろん。連絡ありがとう、桜ちゃん。いつが都合いい?』
平日の夜、私たちは駅前の居酒屋で会った。
他愛もない仕事の話、お互いの空白の5年間について。彼は、私が社会人として頑張っていることを褒めてくれた。
「遥斗さんは、なんで店長になったんですか?」
「……俺は、ずっと同じ場所で、同じ景色を見て、平穏に生きるのが楽だと思ってたんだ。でも、今は少し違う。新しい景色を見たいと思えるようになった。遅いけどな」
遥斗さんの瞳が、一瞬、遠くを見るような色になった。その視線が、どこか私を探しているようで、胸がキュンとなった。
店を出て、歩きながら。静かな夜風が頬を撫でる。彼は、以前のように手を繋ぐことはしなかった。今度こそ曖昧な優しさを繰り返さないという、彼の固い決意の表れのようだった。
「…ありがとう、楽しかった。桜ちゃんも、もう帰った方がいい」
「もう少しだけ…いいですか?」
私の言葉に、遥斗さんの足が止まる。
街灯の下で、顔を上げた私を見つめる彼の瞳に、あの頃の**「触れてはいけない」という葛藤と、「抗えない」**という諦めのような熱が混ざり合っているのを感じた。
「遥斗……」
5年前、最後まで言えなかった名前を、私はもう迷わない。
彼の瞳に、諦めと熱が混ざったのを感じた瞬間、私はそっと目を閉じた。
――遥斗 side――
桜ちゃんが、5年前にはできなかった呼び方で、俺の名前を呼んだ。
その瞬間、俺の理性の防護壁は崩壊しかけた。
彼女の顔が近づく。あの夜、あの熱が、俺の罪悪感を麻痺させ、すべてを許してしまうことを知っていた。
だが、寸前で、俺は動けなかった。
このままキスをしたら、また曖昧な関係に戻る。俺は、彼女の未来を曇らせてしまう。
俺は、彼女の顔からそっと視線を逸らし、一歩後ろに下がった。
「……ごめん、桜ちゃん」
優しく、だが突き放すように、静かに言った。
「今日は、もう帰ろう。終電、大丈夫?」
彼女は、閉じた瞳をゆっくりと開けた。その瞳には、一瞬で絶望の影が差した。
――桜 side――
5年が経っても、遥斗さんは私を受け入れてくれない。
あの優しい「ごめん」は、私への愛情ではなく、私を遠ざけるための、明確な拒絶の言葉だと理解した。遥斗さんは、やっぱり私のことを好きじゃないんだ。
もうこれ以上、この場所にいるのは耐えられなかった。
私は、何も言わずに、彼に背を向け立ち去った。彼の声が後ろから聞こえた気がしたが、振り返ることはできなかった。
――遥斗 side――
俺は、彼女が小さく震える背中を見送った。
俺が今、彼女に与えられるのは、**「曖昧な優しさ」ではなく、「明確な拒絶」**だけだ。それが、彼女を未来へ押し出す、俺なりの精一杯の責任だった。
だが、その責任は、あまりにも重く、痛かった。
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