バイト先の常連おじさん

@gagi

バイト先の常連おじさん

 常連のおじさんが昨日は来なかった。


 私はお蕎麦屋さんでアルバイトをしている。


 城郭跡地公園や美術館などの観光施設と、警察署や図書館などの公共施設が集まる通り。その通りの端っこに、私が働くお蕎麦屋さんはあった。


 その立地からお客さんは観光客の方が多い。だからおじさんの格好はすごく目立って、私は働き始めてからすぐにおじさんの顔を覚えた。



 よれよれの背広をいつも着て、無精ひげを常に生やしている。一体どこに勤めているのって身なりのおじさん。


 いつが休みなんだろうってくらい、ほぼ毎日よれよれの背広で店に来る。


 そんなおじさんが昨日は来なかったから私は『一体どうしたんだろう』と、お客さんの波が引いた午後二時の平和な店内でぼうっと考えていた。


 

 その時がらがらと音を立てて、お店の入り口の引き戸が開いた。


 そこから秋の冷たい風が流れて、私の足元を撫でる。


 のれんをくぐって入ってきたのは、よれよれの背広に普段より濃い無精ひげ。


 常連のおじさんだった。


 私が「いらっしゃいませ」というとおじさんは軽く会釈をしてカウンター席の一番左、つまりいつもの席へ腰かけた。


 私が注文を取りに行くと「かけそば一つ」と言う。これもいつも通りだ。


 けれども、そのおじさんの声は普段以上に元気がなかった。


 また常に目の下にある隈が、今日は一段とどす黒い。


「目のクマ、ヤバいっすね」


 と私はうっかり言ってしまった。


 するとおじさんは、にへっと弱弱しい笑みを浮かべて答えた。


「ちょっと緊急の仕事が昨日から入ってね。ずうっとそれの対応で動いていたんだ。すぐさっきまで書類を作っていてさ」


 おかげでとても寝不足なんだ。そうおじさんは言葉を付け加えた。



 うつらうつらとしながら蕎麦を食べ終えたおじさんが会計をしにレジの前へ立つ。


 おじさんのスマホのバーコードを読み取るときに私は尋ねた。


「今日はこれから帰るんですか?」


「いや、まだ仕事が残っているからね。これから戻るよ」


ヤベーブラック企業だな。そう思って私は若干引いた。


「まあでも、明日は久々の休みだからね。そう思えば頑張れるさ」


 明日はゆっくり休んでくださいね。そう言って私はおじさんを見送った。





 翌々日に来店したおじさんの目元にはしっかりと隈が残っていた。


 相変わらずスーツはよれよれ。髭は剃ったのだろうけれど、顎のあたりにはだらしない青髭が既に生じている。

 

 カウンターのいつもの席に座ったおじさんに注文を取りに行く。おじさんはいつも通り「かけそば一つ」という。


「昨日は休めました?」


 私はうっかり聞かなくてもいいことを聞いてしまった。


「いやぁ、それがね。『たまの休みなんだから家族サービスをしろ!』とカミさんに言われてね。家族を連れて仙台まで牛タンを食べに行ったよ」


 おじさんは、にへっと頼りなく笑った。


「へえ、仙台。いいですね牛タン。ご家族は喜んだでしょう」


「あはは、子供たちからはブーイングの嵐だったよ。『dズニーランドが良かった!』ってね」


 おじさんの笑い方が、にへにへとさらに弱弱しくなる。


 ……悲しいなぁ、と私は思った。


 



 私のアルバイト先はお蕎麦屋さんのはずなのだが、一番の人気メニューはカレーだ。


 そばつゆ用の出汁のあまりで作ったカレーなのだが、SNSや口コミでちょっとした話題になっているらしい。ご来店したお客さんの4、5割はカレーを注文する。


 お蕎麦屋さんでカレーが売り上げの半分って、それもうお蕎麦の完全敗北じゃないか?


 と、そのくらいカレーが人気のこの店で、常連のおじさんはいつもいつでも『かけそば』しか頼まない。


 店長は常連のおじさんが来ると、心なしか嬉しそうな雰囲気になる。


 それはきっと、おじさんがお蕎麦を食べてくれるお客さんだから。カレーよりもお蕎麦を気に入ってくれてるお客さんだと思っているからだ。


 今日も今日とて来店したおじさんはカウンター席の左端に座って「かけそば一つ」と言う。


「かけそば、お好きですね」


 私はまたまたうっかり話してしまった。


「へへ、嫌いではないけどね。うちは家計が厳しくてさ。家のローンの支払いにお姉ちゃんの大学の学費、お兄ちゃんの部活の遠征費に妹ちゃんの塾の月謝、そしてポチの通院費。それら諸々を差っ引いて残った僕のお小遣いでは、一番安いかけそばしか食べれないのさ」


 本当は人気のカレーが食べてみたいんだけれどね、とおじさんは言った。


 私はちらりと厨房の奥、店長の方を見た。


 店長はおじさんのお蕎麦を茹でながら、他のお客さんのカレーを盛り付けている。こちらの会話には気づいていなさそうだ。


 よかった。聞かれていなくて。店長はおじさんのことを、カレーよりもお蕎麦が好きなお客さんだと思い込んでいるから。





 この日おじさんが店を訪れたのは15時ごろ。夜の仕込みの為に一旦店を閉める少し前の時刻だった。


 のれんをくぐって出てきたのはいつものよれよれ背広。


 そして無精ひげの普段の顔が、痣とガーゼでぼこぼこになっていた。


 『いらっしゃいませ』の言葉が詰まって唖然とする私におじさんは会釈をする。


 そして普段の席、カウンターの一番左に座る。


 私はおじさんの傍に寄って『ご注文は』の前に聞いた。


「ど、どうしたんですかその傷」


 おじさんが痣とガーゼだらけの顔を、にへっと歪ませて答える。


「へへ、ちょっと今日の仕事相手の人たちはやんちゃでね。油断してたらやられちゃったよ」


「……もしかして、よくあることなんですか? おじさんの職場では今日みたいなこと」


「うーん、どうだろう。昔はよくあったけれどね。今はそこまで。今日はたまたまかな」


 おじさんは顔の傷がさも重大なことではないかのように、へらへらと振るっている。


「なんか、最低ですね。おじさんの仕事相手の方々って」


「そんなことは、ないよ。根はいい人たちのはずなんだ。……きっとね」



 注文いいかな、とおじさんは言って、いつものように『かけそば』を頼んだ。


 あんな顔が傷だらけの状態で食べれるのだろうかと思ったが、お蕎麦の器をおじさんの前に運べば問題なく食べている。


 私は小さな小鉢に夜からの営業用のご飯とカレーをよそった。


 それを「余りそうだから食べてください」と言っておじさんの前に置いた。


 おじさんは「ありがとう」と言って顔をにへにへ歪ませた。おそらく笑っていたのだろうけれど、あまりにも顔がぼこぼこ過ぎてよくわからなかった。



 お会計の際に私はまたまた余計なことをうっかり言った。


「おじさん、これからも暴力振るわれるようだったら助けてもらった方がいいと思います。警察に」


「……そうだね。助けてもらえたら、それはとてもいいことだよね。警察に!」


 この時のおじさんの口調からは、普段の弱弱しさが全く感じられなくて。


 ぼこぼこの顔でも分かるくらいに力強く、にっこり笑っていた。

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