3
明かりが消え、静まり返る遥香の家。台所で実体化した西華は、息をひそめて冷蔵庫のドアを開ける。音を立てないように気を付けながら、慎重に『遥香専用』と書かれた箱を取り出した。
残り三つ。いくら遥香でも、さすがにこの数を覚え違いするとは考えにくい。記憶違いかそうでないか、悩むぐらいのぎりぎりの数でないと、面白くない。
「今日はあきらめて帰るか」
つぶやいた西華は、背後から近づいてくる気配に気づいた。
「おや、見つかってしまったな」
おどけながら肩をすくめる西華に、気配の主はあきれたようなため息をついた。
「伝説の信太のお狐さまが、コソ泥のような真似をなさらないでください」
「ふふ。遥香が面白くてつい、な」
「プリンだけはやめて欲しいんですけどね。本当にうるさいんですから」
遥香から、ぷりんとやらが好物だという話を聞いて、少しいたずら心がわいた。からかうつもりで二つほど拝借したところ、ぷりんがなくなった、絶対妹が犯人だと、修行中もぷりぷり怒る遥香の様子が面白かった。試しに食べてみたところ、思いのほか甘くて美味。これは良い暇潰しを見つけたと、西華はときどき遥香のぷりんを盗みにきている。遥香本人に見つかるまでは、このいたずらを続けるつもりだ。
西華は振り向いて、苦笑いを浮かべる気配の主――遥香の父、
「見つかっては仕方ない。今日のところはすごすごと退散するとしよう」
「夜道は危ない。お送りしますよ」
とんちんかんな清明の言葉。
「はあ? ワシを誰だと――」
思わず言い返しかけて、言葉を止める。清明の表情が西華の気を変えた。
今日に限って声をかけてきたことも気になる。
「……そうだな。では、お言葉に甘えてお願いするとしよう」
穏やかな夜風が心地よく肌をくすぐる。秋の虫たちの奏でる雅な音色が、西華の心にしみわたる。見上げれば、上限の月が星空にぷかり。好天が続くようだし、来週は中秋の名月が楽しめそうだ。
(やはり、秋の夜は良い。……そういえば、秋は夕暮れと抜かしておったやつがいたな。何度言っても頑として聞き入れなかったが、やはりワシの方が正しい。秋は夜だ)
「このあたりも、ずいぶん変わりましたねぇ」
清明のしみじみとした声が、物思いにふけっていた西華を現実へと引き戻した。
「そうか? あまりそんなようには思わんが」
「変わりましたよ。あなたを訪ねて来たときは、ただの山だったのに」
何気ない一言だが、西華の胸にずきりと痛みが走る。
――やはり、恨んでいるのか。
「……いつの話をしておるのだ、お主は」
ごまかすように、そう言った。
しばしの沈黙が訪れる。空気を変えようと、西華は大げさに「そういえば」と口にしながら清明をねめつけた。
「お主、ずいぶんと危ない橋を渡ったものだな」
「なんのことでしょう?」
とぼける清明をにらみながら、西華は清明の所業を思い出す。
清明はここ二週間ほど、式神たちに小型かめらとかいう機械を仕込んで、姫山とやらいう小娘の周囲を撮影し続けていたのだ。たっぷりと集まった証拠を、まずは学校に、しばらく反応がないので次は姫山の自宅に偽名で送り付けた。『表沙汰になるのは困るでしょう? 娘さんをおとなしくさせてね』という書付とともに。
清明の所業は、いろんな意味で法度に触れる。人の世の法律でも、許されざる立派な犯罪行為だし、顕界幻界の取り決めでも、霊力の悪用と見なされてしまえば粛清されることにもなりかねない。
「神仏どもは静観するようだが、あまり無茶をするでない。お主に何かあれば、遥香が悲しむだろう」
「ははは。まあいいじゃないですか。可愛い娘の大切な親友が、理不尽な目に合いそうなところだったんですから。少しぐらいの無茶ならば、神様たちも許してくださいますよ」
「……しかし、式神にもあのような機械が扱えるのだな。正直驚いた」
最近の機械は複雑すぎて、西華にはちんぷんかんぷんだ。遥香が遊んでいるげーむとやらを何度か触ってみたものの、全然うまく操作できない。ここぞとばかりに満面に笑顔を咲かせて、「西華のへたくそ!」とからかってくる遥香に、少しだけ腹立たしい思いをしているのは、内緒だ。
そんな複雑な機械を、使い魔にすぎない式神どもがあれほどうまく扱うとは、西華には信じがたい話だった。
「それほど難しいことでもありません。標的を見つけたらスイッチを押して撮影しろと命じるだけですよ」
「ついていけん」
そんなふうに他愛のない話をしていると、鎮守の杜が見えてきた。
「……ここでよい。久しぶりにお主と話ができて楽しかった。ではな」
西華はひらひらと手を振り、清明に背を向けて歩き出した。
「恨んでなど、いませんよ」
背後からの声に、息をのむ。足が止まり、体がわなわなと震え始める。胸を詰まらせながら、おそるおそる振り向いて、清明と目を合わせた。穏やかな微笑みをたたえながら、愛情のこもった優しい眼で自分を見る清明に、かすかなうめき声が漏れ出た。
「父上も同じ想いでした。ただ、会いたかったのです。本当に、もう一度、会って、話がしたかっただけなのです。……ようやくお会いできて、本当に嬉しい。遥香には感謝しないといけませんね。千年越しの私の願いを、あの子がかなえてくれたのですから」
照れたような笑みを浮かべる清明の――生まれ変わった我が子、童子丸の顔が、いつの間にかあふれ出していた涙でにじむ。何か言葉を、と思うのに、出てくるのは嗚咽だけだ。
自分で会いに来いと言っておきながら、いざとなったら怖くなった。わざわざ森をたずねてきた二人に、直接会う勇気が持てず、式神に任せて身を隠した。
何が、尋ね来てみよ、だ。臆病者が。こんな臆病者に、大切な人たちとの思い出なんて――二人に向けていた感情も、二人から向けられた想いも、必要ない。抱えておく資格もない。だから捨てた。そう、思っていた。
今、心の奥底から湧き上がってくるこの想いは、捨てたはずの大切な想いそのものだった。こみ上げる激情に耐えきれず、西華はひざまずき、声をあげて泣いた。
その背を、童子丸が優しくさすってくれる。とてもとても、なつかしいぬくもり。あふれ出る涙をこらえることなど、できるはずもなかった。
その夜、狐の泣き声が、信太の森に響き渡った。
お社の前で、西華は夜空を見上げていた。
「恋しくば、尋ね来てみよ和泉なる、信太の森の、うらみ葛の葉、か」
大昔に自らが詠んだ歌を口ずさみながら、西華は遥香との出会いを思い出していた。
ころころと表情が変わる、天真爛漫な娘っ子。なつかしい気配をまとう、眩いばかりの笑顔を振りまく太陽のような少女。
関わり合いを持つうちに、灰色だった西華の日常は、急速に、華やかに色彩を帯びていった。遥香と共に過ごす日々は、春の日差しのように、凍り付いていた西華の心を暖かく溶かしてくれた。人との触れ合いが大好きだった昔のことを思い出させてくれた。
それどころか、童子丸とまで――。
ここ百年ほどはひっそり生きてきた。気まぐれで町に出たり、たまに神社を訪れる子どもたちと戯れたりはするものの、それだけ。深く人と関わることもなく、ただ漫然と日々を過ごしてきた。このまま誰の目にも触れず、記憶の影に身を隠しつつ、守り人としての使命のみを全うしようと考えていた。
壊れた時計が針を進めることがないのと同じく、西華の時も、もうずいぶん前から止まっていた。大切な想いを捨て去った西華には、この世に未練など、一片たりともなかったのだ。
だが、遥香との出会いが、止まっていた西華の針を動かした。遥香のおかげで、あの大切な想いを、もう一度取り戻すことができた。
今や西華にとって、遥香はかけがえのない存在だ。何物にも代えがたい宝だ。
童子丸の言葉が胸にしみる。
「遥香に感謝、か。その通りだな。いくら感謝しても、し足りんな」
遥香には出来る限り、自分の選んだ道をまっすぐ前に進んでもらいたい。
自分はそのための道しるべとして、あの子を照らす光となろう。
西華は今、そう決意している。
満天の星空というには物足りないが、今宵の空は普段よりも星がよく見える。
明日もきっと、さわやかな秋晴れになるだろう。
そんなことを思いながら、西華はいつまでも、秋の夜空を見上げていた。
(了)
シノダの杜のハルカなり! 鷹森涼 @TAKAMORIRYO
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