3
千蔵は蛇の妖だ。生まれて二百年ほどが経つ。
由緒正しい妖の一族に生まれ、幼少の折は皆に持ち上げられながら順風満帆に日々を過ごしていた。しかし、千蔵の才が凡庸であることが知れ渡ると、周りの者たちは掌を返すように離れていった。生まれや名持ちであることを鼻にかけ、傍若無人に振る舞っていた千蔵に対して、心の内で反感を抱いていた者は多く、そうなるのも致し方のないことであった。
しかし、己を大妖級の器だと自負する千蔵にとっては、許しがたい屈辱だった。
不満をくすぶらせ、馬鹿にしたやつらを見返したいと望む千蔵は、いつしか大結界を破り、顕界で人を食らって霊力を高めることを目論むようになっていた。重大な罰をともなう掟破りだが、危険性を考慮する余裕は、とうの昔に失われてしまっている。
そんな時、大結界が一時的に緩んだ。
千蔵にとっては、またとない機会だった。ここぞとばかりに顕界へ侵入した千蔵だったが、残念ながら霊体から変じることができなかった。
人を食らうためには実体化する必要がある。しかし、これにはある程度の霊力が必要だ。その程度の霊力すらなかった自分に愕然としながらも、千蔵はまず実体化のための霊力を得るために、依り代となる人間を探していた。
条件は単純明快。霊力の量がほどほどにあって、それを操るすべを持たないもの。そして、心に隙があるもの。
追手の目をくらませるために気配を消し、陰に潜みながら獲物を探して二か月。目の前に現れた真っ白な肌の少女は、千蔵の望む条件を満たす、格好の餌だった。
※
学校に向かう遥香の足取りが重い。まるで鉄のダンベルでも引きずっているかのようだ。
昨日の姫山とのいさかいも原因だけど、家でもちょっとしたトラブルがあり、目が覚めてもすっきり気分が晴れない。秋晴れの気持ちのいい朝が、今はかえってうっとうしい。
トラブルの内容は、いつもと同じ姉妹喧嘩。
遥香はプリンが大好きだ。冷蔵庫には『遥香専用』と書かれたケースが入っていて、月二回の補給日――毎月一日と十五日に、遥香は近くのスーパーで大量のプリンを買い込んで、ケースにぎっしりと詰め込むのだ。邪魔だとお母さんはいうけれど、こればっかりは譲れない。毎月お小遣いの三分の二はプリン代に消える。遥香にとって、プリンは活力の源だった。
最近、そのプリンストックがなくなるスピードがはやいような気がする。誰かが遥香のプリンに手を付けているのではないか。そんな疑いが、遥香の頭から離れない。
昨晩、落ち込んだ気分を解消しようとケースを取り出したところ、九個残っていたはずのプリンが七個しかない。
前から妹が犯人だと決めつけていた遥香は、お小遣いゼロ期間中の悪行を許すわけにはいかないと、ついに美月を問い詰めたのだけれど――。
「食べるわけないじゃん、あんな三つ百円のプリンなんか。食べるんならもっと上等のプリン食べるよ。自分で食べたのを忘れてるだけでしょ」
「三つ百円で何が悪いんだよ!」
貧乏舌と馬鹿にされたような気がして、言い争いになってしまった。見かねたお母さんから大目玉をくらい、しょんぼりしたところを貴明になぐさめてもらう。
「たっくんはやさしいね! お姉ちゃん、たっくん大好き!」、
キャッキャとはしゃぐ貴明とじゃれついていたのを見た美月が、「出た、姉バカ。いやバカ姉か」と茶々を入れてきた。それが原因でまた大ゲンカになり、お母さんから雷の連撃をくらってしまった。
そんなわけで、とても重苦しい気分のまま、遥香は校門をくぐる。少し歩いて、気づいた。学校の雰囲気がいつもと違う。
昇降口が見えるあたりまでやってきた。入口近くでみんな足を止めて、中の様子をうかがっている。ある人は心配そうな顔をして、ある人は面白そうな表情で。
ガヤガヤざわざわと騒がしい。普段の穏やかな朝の雰囲気とはかけ離れた、どこか殺気立っているようなピリピリした空気が、あたりに満ち満ちている。
(……なんかあったのかな?)
よくわからないまま、遥香は昇降口に近づく。玄関先にいた聡美が、遥香の方へ目を向けた。泣きそうな顔をして駆け寄ってくる。
「遥香! 文乃が!」
※
文乃は顔を真っ青にしながら、上履きにはき替えた。こみ上げてくる吐き気がおさまらない。
昨日の昼休みに、大切なぬいぐるみがなくなっていることに気づいた。その瞬間、全身から嫌な汗が噴き出した。
(うそ、なんで⁉ 朝来るときは間違いなくついてたのに……。どこかで落としちゃった? でも――)
ストラップはしっかりと丈夫なものにしていた。簡単に外れるとは思えない。
教室、廊下、昇降口に至るまで、昼休みとその後の休み時間に隅々まで探したけれど、全然見つからない。先生にも尋ねたけれど、ぬいぐるみの落し物は届いていないという。
心当たりは、ある。だけど証拠もなしに問い詰めても――。
あの雨の日の翌日から、三組の女子たちに無視されるようになった。いつも通り友だちに朝のあいさつをしたら、気まずそうな顔で目をそらされた。何事かと思ったけれど、その後教室に来た水無月の、小馬鹿にするような歪んだ笑みを見てすべてを察した。
何人かのクラスメイトが、メッセージアプリで秘密裏に連絡をくれた。あの姫山は学年中でかなり恐れられているらしい。したがわざるを得ないことを必死に謝ってくれた。
思うところがないわけではない。だけど連絡をくれた友だちには『気にしないで。私は大丈夫だから』と返信した。それから一週間、文乃は教室で孤立したまま。
反応すればやつらの思うつぼだ。あの手の連中は、反応がないことを何より嫌がるものだ。そう考える文乃は気にしていないかのように振舞う。見た目が大人しそうだからかよく誤解されるけれど、周りの人が思うほど、文乃は弱くない。勝手にすればいい。
ただ、遥香と仲直りできていない今、あのぬいぐるみは文乃にとって、心のよりどころといっても言い過ぎではない。なくしてしまうことなんて、絶対にあってはならない。
――一刻も早く見つけなくては。
いつもより早く保育園に連れて行った優衣には申し訳なく思うけれど、朝の間に昨日探していない場所を探そう。そう考えていた文乃を待ち伏せしていたかのように、姫山たちが現れた。今日の人数は四人。相変わらずいやらしい笑みを浮かべている。
文乃は身構えつつ、問う。
「……何か用?」
「大人しそうな顔してやってくれるね」
ふてぶてしい態度の姫山。意味がわからない。
「何のこと?」
「はん! とぼけやがって……。まあいいや。あたしらも今のところ、あいつと正面切ってやり合う気はないんだよ。だから、あいつに言っといてくれる? 勘違いだって」
姫山は一体何を言っているのか。あいつというのが遥香のことだというのはなんとなくわかる。遥香と何かあったのだろうか?
知らず知らずのうちに、眉根が寄る。腑に落ちない思いが表情に出る。姫山を見据える眼が険しくなる。その視線を受け止める姫山が、いらだたし気に顔をしかめた。
「なんだよそのツラ。ほんと、あんたらうっとうしいね。……まあいいや。これ、落ちてたよ。わざわざ返しに来てやったんだ。感謝してよね」
姫山がなにかを投げた。受け取りそこなったそれが文乃の手からこぼれて床に落ちる。
心臓が、まるで握りつぶされたみたいに、ぎゅっと縮んだ。
昨日から必死に探していた宝物。遥香が作ったぬいぐるみが、ずたずたに切り刻まれている。フェルトがあちこちめくれあがり、傷口から無惨に綿がこぼれ落ちている。
うまく呼吸ができない。震えが止まらない。涙があふれてくる。
「……どうして?」
「あん?」
その場を立ち去ろうとしていた姫山が振り向いた。
「どうして、こんなひどいことができるの?」
「なに? 泣いてんの? ダサ。それで? あたしらがやったとでも言いたいわけ? あいつといいあんたといい、証拠もないのに言い掛かりつけんなっての。あたしらがやったとこでも見たのかよ。見つけたときにはそうなってたんだよ! 大体、そんなボロ人形、ちょっと傷がついたからってどうってことねぇだろ? もともとゴミみたいな――」
キインという音が耳の奥で響いて、姫山の言葉をかき消した。目の前が真っ暗になって、何も見えなくなった。意識が、どこかへ飛んでいった。
気がついたとき、文乃の目に映っていたのは、頭を押さえてうずくまる姫山と、大声で騒ぎ立てる姫山の仲間たち、そして、突き出した自分の腕だった。
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