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「文乃、最近一組に来ないね」
放課後、廊下をならんで歩く聡美がつぶやいた。遥香も少し気にかかっている。
あいかわらず、遥香は文乃に謝ることができていない。
西華の言葉は遥香の胸に響いた。翌日、すぐにでも謝ろうと思ったけれど、いざとなったら足がすくむ。
つけまわしてチャンスをうかがうものの、目が合うと逃げてしまう。休み時間ごとに一組に来てくれていた文乃からも逃げ回り、ちゃんと向き合うこともできないまま時間だけが進む。これじゃダメだ、次こそはと思いながらも、気づけば十日ほどが過ぎてしまった。
それでも、少しずつだけど覚悟が固まってきている。次に会ったら、謝れる、はず。逃げ回りながらも文乃を待ち遠しく思っている遥香だった。
ただ、一週間ほど前から文乃が一組に顔を見せなくなった。三組の様子を探っても、閉じこもっているのか、教室の外であまり文乃の姿を見ない。
(アヤちゃん、どうしたのかな……)
心配ではあるけれど、三組に突入するまでの勇気は持てない。モヤモヤした思いを抱えながら、遥香は日々を過ごしていた。
「遥香があんまりアホすぎて、文乃もあきれちゃったから、相手するのをやめたんじゃない?」
「そんなわけない。アヤちゃんがそんなこと思うはずない。……多分、ドラマみたいな、感動的なタイミングをはかってるんだよ」
「アホなこと言ってないで、さっさとケリつけてほしいんだけど。私の身にもなれ」
聡美が横目でジトリとにらむ。
頭の上からそんな目で見ないでほしい。遥香は「う~」とうなり声をあげながら、聡美の脇腹を指でツンツンした。
「やめろ、つつくな。なにがう~だ、アホ」
そんなやり取りをしているうちに、二人は昇降口についた。
三組の靴箱付近に、山本がいた。顔を見るのはずいぶん久しぶりのような気がする。
「おっす山ちゃん。どう? 百四十キロ出るようになった?」
あいさつがてら、軽口をたたく。ちなみに、百四十キロというのは球速、要はピッチャーの投げる球の速さのことで、並大抵のことで出せる数字ではない。中一で出せたら、日本中の強豪高校のスカウトが目の色を変えて押し寄せるだろう。
「出るわけないだろ。やっと百三十が見えてきたところだよ」
「お~、すごいじゃん。さすが山ちゃん」
実際、山本はすごいピッチャーだ。去年全国大会まで勝ち進めたのも、山本の力があってこそ。遥香もたくさんのピッチャーと対戦してきたけれど、山本に匹敵するピッチャーなんて、今まで一人しかお目にかかったことがない。
「このまま行けば甲子園間違いなしだね。でも、やっぱ男子はすごいね。硬式かぁ。カッコいいなぁ」
プロと同じボールで野球するっていうのは、やはり特別なことのように感じる。
「そんなご大層なもんでもないだろ。野球は野球だよ」
「いや、大層なもんだよ。わたしも硬式やってみりゃよかったかなぁ」
一応、中学ではどの野球をしようか悩んだのだ。小学校の続きで軟式をやるか、思い切って硬式をやるか。結局は茜に誘われたソフトボールを選んだけれど。
のん気にそんなことを考えていたら、「遥香」と呼ばれた。山本の眉がギュッと寄っている。
「なに? まじめな顔して」
「御影さん、ちょっとヤバいかも」
「……え?」
スカートをはためかせながら三段飛ばしで階段を駆け上がり、遥香は一年の教室がある三階へ。そのまま息もつかせず一組まで走る。あいつらはまだ教室に……いた。
「おい姫山ぁ! お前アヤちゃんに何した!」
教室が震えるかと思うほどの怒声を発しながら、机に座って仲間とだべっていた姫山に駆け寄る。
姫山はあっけにとられて声を出せない様子。一気に近づいた遥香は、姫山の胸ぐらをつかんで、力任せに引っ張り上げた。
「わたしが気に入らんのやったら、わたしに直接手ぇ出せや! なんで関係ないアヤちゃんに手ぇ出すねん! あんまりなめた真似しとったら、ただでは済まさんぞ!」
「い、いきなり何言ってんだよ。おい、手、離せよ。痛いって。服が伸びるだろ」
姫山が遥香の腕をつかんだり体を暴れさせたりしはじめる。けれど、遥香はびくともしない。野球で鍛えた遥香からすれば、姫山の抵抗なんてないも同じだ。
「……意味わかんないんだけど。安倍、これ何のつもり?」
振りほどくのをあきらめたのか、そのまま姫山が話し始めた。
「ふざけんな! お前、アヤちゃんに嫌がらせしてるやろ!」
「は? 知らんし。だいたい、あやちゃんって誰だよ」
「三組の御影文乃や! とぼけんな!」
山本の話が進むにつれて、遥香の頭にドクドクと血が上っていく。隣の聡美もかなり頭にきている様子。
なぜ文乃が、いじめられなくてはいけないのか。
きっかけは姫山たちと揉めたことだという。山本も詳しいことは知らないそうだけど、どうせ遥香がらみで揉めたに決まっている。
「ウチのクラスにもあのグループのやつらがいるからさ、そいつらを通して、クラスの女子たちに連絡が回ったらしいんだ。姫山たちは、ほら、なんというか、うっとうしいだろ。タチの悪い先輩ともつるんでるし、親もうるさいしさ。やるとなったら無茶することもあるし。みんな自分がターゲットになるのは嫌なんだよ」
「だからって、いじめるほうに回るなんて……!」
ほとんどの人は、姫山たちが怖くて仕方なく無視しているだけだという。だけど三組にも小学校時代の友だちだっているのに。
「……御影さんは、ほら、強いからさ。平気そうに見えてたんだ。でも今日の昼過ぎぐらいから、様子がおかしいんだよ。顔色も悪くて、元気なさそうで。ちょっと心配なんだ」
文乃の気持ちを思うと、胸が張り裂けそうだ。
「……あのアホども、絶対許さへん」
絞り出すような遥香の大阪弁を聞いたとたん、聡美と山本がぎょっと表情を変えた。
「は、遥香。ちょっと落ち着いて。まだ山本の話だけでしょ。まずは文乃に話を――」
「そ、そうだよ。ちゃんと御影さんに――」
二人が何か言っているけれど、今の遥香には聞こえない。遥香は体をひるがえし、猛烈な勢いで走り出した。
「聞いてんのか! 今すぐアヤちゃんいじめるのやめろ!」
「なに言ってんだかわかんねーって言ってるだろ! いい加減手ぇ離せよ!」
二人の怒鳴り合う声が教室に響きわたる。
頭が沸騰しそうだ。目の前が真っ赤に染まり、姫山の顔もわからなくなるほど。こんなにおなかの底から怒りがこみあげてくるのは、生まれて初めてだった。
ぬけぬけと白を切る姫山が、憎くて憎くて仕方ない。
「さっきからとぼけたことばっかり言うな! この――!」
こぶしを握りしめた右手を思いっきり後ろに引いた。姫山の顔が引きつる。怖気づいている? なら最初からするな! かまうものか、このまま殴ってやる!
その時、遥香の手首に強い力が加わった。誰かに手首をつかまれている?
振り向くと、そこには小野先生の姿。その後ろから息を切らせた聡美が教室に飛び込んできた。遥香たちを見る聡美の顔が、赤くなったり青くなったり。
小野先生は遥香の手首をものすごい力でつかみながら、小さく顔を振った。
「安倍。手は出すな。手を出したら何もかもおしまいだぞ」
とても静かな声だった。普段とは口調すら違う。氷水を浴びせかけられたように、沸騰した頭が急速に冷える。姫山の胸ぐらをつかむ左手の力が抜ける。
「クソ、バカ力。あ~首が痛い。まったく、言い掛かりつけんなっての、アホ」
解放されたとたん、姫山は憎まれ口をたたいた。遥香の頭に再び血が上る。けれど、小野先生に手首をつかまれたままでは、自由に動けない。
その様子を見て、ふんと鼻を鳴らした姫山たちは、そろって教室を去ろうとした。
「姫山」
小野先生が呼び止めた。
「……何ですか。言っときますけど、あたしら何もしてませんよ。このアホが一方的に――」
「天網恢恢疎にして漏らさずって言葉、知ってるか?」
「はあ? 何ですかそれ」
「あんまり、大人をなめるなよ」
ピキリと、教室全体が凍りついた。
小野先生の声は、大きくも小さくもなく、平坦で、温度が感じられないものだった。なぜだかものすごい迫力がある。いつもの小野先生と、同じ人とは思えない。その場にいた生徒たちはみんなゴクリと喉を鳴らす。
姫山たちも気圧されたように息をのむと、そそくさと教室を出ていった。
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