忍び寄る悪意

「なんで⁉ 約束したじゃん!」


 声を荒げる遥香に、文乃はごめんと頭を下げるしかなかった。引っ越しのことを伝えることが、どうしてもできなかった。


 休日のほとんどを野球チームの活動にあてる遥香から、珍しくお誘いがあった。ゴールデンウィークの最終日が休みになったから、一緒にどこかへ遊びに行かないかと。文乃は大喜びで誘いに乗り、近くにある小さな遊園地に行く約束を交わした。


 うきうきしながらその日を待ちわびていた文乃の元に、急な知らせが飛び込んでくる。


「仕事のトラブルで、北海道に行かなきゃならなくなった。多分何年か帰れない。おばあちゃんも健康に不安があるし、優衣はどうしても連れて行かなきゃならんが、お前はどうする? 文乃ひとりの面倒見るぐらいなら、おばあちゃんも大丈夫と言ってくれてる。友だちと離れるのは辛いだろう? 大阪に残るならそれでもいい。急な話ですまないが、できるだけ早く決めてほしい」


 お父さんから告げられた時、一も二もなく文乃は即断した。


「当然、お父さんについていくよ」


 引っ越しの日はゴールデンウィークの初日。遥香との約束の日に、文乃はすでに大阪を離れている。お別れのことを隠したまま、遥香に約束のキャンセルを申し出た。


「せめて理由を教えてよ! わたし、めっちゃ楽しみにしてたのに、理由もわからないままなんて納得できないよ!」


 遥香の言い分は当然だ。だけど、もう会えないなんて、絶対に言いたくなかった。

 黙ったままの文乃に、遥香は目を怒らせて、最後に怒鳴った。


「もういいよ! 勝手にすれば! アヤちゃんなんて、大っ嫌い!」


 遥香のその言葉とともに、文乃は飛び起きる。

 久しぶりに見る夢だった。




 大阪に戻った後は、おばあちゃんが家のことを手伝いに来てくれることになっていた。自分がやると言ったのだけど、お父さんは微笑みながら首を横に振る。


「お前はまだ子どもなんだ。たまには甘えてくれないか? そうじゃないと、お父さんがあまりに情けないじゃないか。まあ、結局おばあちゃん頼みなんだから、偉そうなことは言えないけどな」


 そんなお父さんの言葉に、おとなしく甘えようかと思った矢先、おばあちゃんがぎっくり腰になってしまった。


 重症ではないけれどしばらくは安静が必要ということで、おばあちゃんの腰が治るまでの間だけ、引き続き文乃が家事をすることになった。お父さんの面目なさそうな顔が、なんだかおかしかった。


 そんなわけで、文乃は学校が終わるとすぐに保育園へ優衣を迎えに行かなければならない。だから、休み時間に一組へ行って遥香に会おうとするのだけれど、いつ行っても遥香は留守だった。


 避けられているのかも、という考えが頭をよぎるけれど、あきらめるわけにはいかない。許してもらえるまで、何度でも挑戦しよう。文乃の決意はとても固いものだった。


 ある日、視線を感じて振り向いてみれば、廊下の角からひょこっと顔を出している遥香と目が合った。微笑みかけてみると、何とも言えない顔をして走って逃げていく。


 そんなことが何度か続いた。以前サブスクでお父さんが見ていた古いドラマのタイトルではないけれど、振り返れば遥香がいるのだ。どうやら文乃をつけまわしているらしい。


 そのくせ休み時間に会いに行くと、居留守まで使って文乃を避ける。ある時なんて、明らかにばっちり顔を合わせたのに、何を思ったのか掃除ロッカーの中に飛び込んで、「いないって言って!」と聡美にお願いしていた。


「……だ、そうだ。悪いね、アホで」


 聡美も、あきれたような笑みを浮かべていた。


 どうやら遥香も、文乃と話をしたいと思っているようだ。嫌われているわけではないことがわかってほっとする。ちぐはぐな行動も、遥香らしくておもしろい。


(ハルちゃんの気持ちが落ち着くまで、もう少し時間が必要なのかも)


 少しでも早く謝って、昔のように遥香と仲良くしたい。けれど肝心の遥香があの調子。自分の気持ちを、胸の奥にある引き出しにぎゅぎゅっと押し込めて、遥香の決断の時をじっくり待つことにした。

 前みたいな関係に戻れるのも、そう遠い先のことではないような気がしていた。




 その日はあいにくの雨だった。


 朝、いつものように優衣を保育園に送り届けてから、文乃は学校に向かった。


 玄関口の軒先で、とんとんと傘の水気を払う。大きめの傘のおかげで制服は大丈夫だったけれど、カバンは雨で濡れてしまった。中まで水は入っていないだろうけど、ぬいぐるみがびしょびしょだ。


(後で乾かさないと。だいぶ傷んできちゃったな。もう、五年ぐらいになるのかな)


 遥香がくれた大切なぬいぐるみだけれど、寿命が近いのかもしれない。できるだけ長くもたせるために、きちんと手入れをしなくては。


 そんなことを考えていた文乃が顔を上げると、いつの間にか五人の女子たちに取り囲まれていた。一人は同じクラスで、名前はたしか、水無月といったか。あまり関わりのない子だが、いったい何だろう。五人とも薄ら笑いを浮かべていて、どことなく嫌な空気だ。


「私に、何か用?」


 文乃が笑顔でたずねると、その中の一人が口を開く。自信満々といった感じの表情。このグループの中心であると、態度で匂わせている。


「御影、だよね。三組の転校生の」

「……そう、だけど。あなたは?」

「あたしは一組の姫山。ねえ、ハルカスとなんか揉めてんの?」


 ぎしりと、心が鳴った。それでも文乃は笑顔をたもつ。


 ハルカスと呼ばれることをなにより嫌う遥香を、ためらいもなくそう呼んだ。直感がささやく。こいつとは仲良くできない。


「ハルカス? だれのこと?」

「……とぼけてんの? まあいいや。安倍だよ、安倍遥香。あんた、避けられてんでしょ? ねえ、なんか面白い話あったら教えてよ」

「ああ、ハルちゃん。いや、別に揉めてないけど。面白い話って、例えば?」


 声が少し固くなっている。まともに相手をする気にはなれない。徹底的にとぼけ倒してやる。さっさとどっかに行ってしまえ。


「なんでもいいよ。あいつの恥ずかしいこととか。昔の失敗なんかでもいいや。あたしらさ、あいつのこと嫌いなんだよね。いい子ぶっててさ。知ってる? 最初の自己紹介の時、あいつプロ野球選手になりたいとかほざいたんだよ。意味わからんよね、女なのにさ。ああいう、寒いこと言ってみんなの気を引こうってやつ、死ぬほどムカつくんだよね」


 同調するように他の四人が笑う。下品な笑い声が、文乃の心を嫌悪感で満たす。


「なんか、小野とかソフト部の先輩にもかわいがられてんでしょ、あいつ。どこがかわいいんだか、あんなの。アホだし、ギャアギャアうるせえし」

「ほんとそれ! それに、アホのくせにすましちゃってさ。あたしらのこと相手にしてないって態度、めちゃムカつくよね」


 聞くに堪えない。耳が腐り落ちそう。黙ってやり過ごそうと思ったけれど、やめだ。文乃は笑顔のまま、五人に対峙することを決意する。


「別にいいんじゃない? どんな夢を持とうと、そんなの本人の自由でしょ? ハルちゃんがプロ野球選手になりたいからって、あなたたちに何か迷惑でも?」


 姫山の顔から笑みが消えた。すっと目を細めて、文乃を鋭くにらみつけてくる。


「……は? なに、ケンカ売ってる?」

「別に。そんなふうに聞こえたかな? 気に障ったのなら謝るよ。でも、ハルちゃんは私の親友なんだ。私の前でハルちゃんのこと悪く言うのは、やめてほしいかな?」


 笑顔を崩さないまま反論する文乃に、姫山以外の四人はひるんだ様子を見せる。


 ただ、姫山は違う。さすがはグループのリーダー格とでもいおうか。それなりに腹は座っているようだ。眼光が、どんどん鋭さを増していく。


「……なるほど。あいつの親友っていうだけあるわ。ムカつき具合がよく似てる」

「それはどうも」


 それだけ言って、笑顔のまま、姫山を見据え続ける。姫山も文乃から視線を外さない。


 永遠とも思えるにらみ合いは、姫山によって突然ほどかれた。


「ふん。まあいいや。御影、ね。うん、覚えとくわ。みんな行こ」


 姫山は、四人を連れてその場を立ち去った。


 連中の後ろ姿が消えるまで見送った文乃は、笑顔をやめてふうと息をついた。


(ハルちゃん、厄介な奴らに目をつけられてるな)




 翌日から、教室での文乃の生活は一変した。


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