3(後)
あべのハルカスは、地上六十階高さ三百メートル、ちょっと前まで日本で一番高かった、大阪が誇る超高層ビルだ。
遥香はあべのハルカスが大嫌いだ。理由は簡単。自分の名前にとてもよく似ているから。
フルネームを名乗ると、どいつもこいつも嬉しそうに、口をそろえて「あべのハルカスみたいな名前!」と言う。なにがおもろいねん。
最初のうちは自分でも「そういえば、似てるね」とかなんとか言って合わせていたけれど、何度も何度も同じことを言われるうちに、だんだん腹が立ってきた。
そんな中、悪口として遥香のことを『ハルカス』と呼ぶやつらが現れる。
ハルカプラスカスイコール『ハルカス』。どついたろかと、何度思ったことか。
遥香は自己紹介の時、必ずこう言ってけん制するのだ。
「安倍遥香です。あべのハルカスではありません。そこから名前を取ったわけでもないです。わたしをハルカスって呼んだら、ボコボコにしばき倒しますんで、よろしく」
「ところで、ハルカス」
狐のおばけが笑っている。
「遥香やって言うてるやろ! ハルカス言うな! おばけやからってなんでも許されるわけと違うぞ!」
「おばけ? ワシのことか? ……驚いた。この世に生を受けて、おばけ呼ばわりされたのは初めてだ。新鮮な響きだな。うむ、可愛らしい。不思議と嫌な気がせん。おばけか、悪くない。なるほどなるほど」
一瞬面くらったような表情をした狐耳は、あごに指をあてて一人でウンウンうなずいている。その様子を見ていると、血が上って熱くなった遥香の頭が、だんだんと冷めていく。
「おばけじゃ、ないの?」
「ん? ああ、別におばけでも構わんぞ。正確には妖だな。名は別にある」
「あやかし?」
聞いたことがあるような。遥香が知っている言葉で、近いものといえば――。
「妖怪とか、そんな感じ?」
「そうだな、顕界の者はそう呼ぶことが多いな」
「けんかい?」
狐耳の口からは、次から次へと知らない単語が飛び出てくる。
「簡単に言えば、この世のことだ。まあ、暇だからな。説明は後でゆっくりしてやるが、とりあえずハルカよ。お前、もうすぐ死ぬぞ?」
さらっと、何事でもないように、笑顔のまま、狐耳が言った。
その言葉を遥香が理解するのには、たっぷりと三分が必要だった。
※
奏多は
不動明王は仏教で信仰される仏さまだ。険しい表情の見た目はとても恐ろしいが、実は心優しく慈悲深い仏さまで、人々を災いや迷いから救ってくださる、といわれている。日本全国に不動明王を祀るお寺はたくさんあって、お不動さんと呼ばれて多くの人から親しまれている。
大阪の南東部にも瀧谷不動尊という有名なお不動さんがあるのだが、実はその近くには昔から、不動明王の眷属の末裔が住んでいる。彼らこそが彼方衆で、不動明王の配下として、幻界がらみの事件解決にあたることを使命とする。
奏多も子どもながら彼方衆の一員で、まだまだヒヨッコではあるものの、素質があって筋も良いと、先輩方からの評判は上々だ。
午前中に修練をこなし、昼過ぎに近くの本屋さんで何冊か小説を買ってきた帰りだった。読書の楽しみに胸を弾ませていた矢先に父のこの態度。詳細を聞く気にもなれない。じっと黙って顔を見つめていたら、父がためらいがちに口を開いた。
「
「それは、もちろん」
封印とは、顕界と幻界を隔てる大結界のかなめとなる門のようなもので、全国のあちらこちらに存在している。
中でも、大阪の南西部にある信太の森の封印は特異性の高いもので、奏多もその重要性を耳にタコができるほど叩き込まれている。森に住みついているという、古の
「どうやら、異変があったらしい。信太の森の封印が緩んでいる」
「うそでしょう? だって、あそこには――」
怪物がいて、下手にちょっかいを出すのは自殺行為ではないか。現に、ここ千年近くの間、あの森の封印に手を出そうとする者はいなかったはず。そう言おうとした奏多を遮り、父は続ける。
「お前の言うとおりだ。だが、実際に緩んでいるんだ。状況を確認しにいかなければならんのだが……」
奏多の父は言葉を濁して顔をしかめた。
「なにか、問題でも?」
「あそこの狐がな、彼方衆を嫌っている。彼女のテリトリーに無断で足を踏み入れたら、最悪殺されかねない」
初めて耳にする話だった。殺されるとは穏やかではない。
「なぜ嫌われているんですか?」
「ご先祖様たちが、彼女に何かしたらしいのだが……。伝承も口伝も何も残っていないから、正確なところはわからん。ただ、嫌われているのは事実で、やむなく近づく場合でも、事前にお伺いを立てなくてはならないんだ」
「じゃあ、お伺いを立てればいいのでは?」
「時間がない」
封印に何かあったのだとしたら、状況把握は緊急の課題だ。悠長に許可を取っている暇はないというのは、理解できる話だった。
「それで、僕に何を?」
「相変わらず話が早くて助かる。さすが俺の子。信太の
「……はあ。それで?」
できるだけ顔に出さないようにしたけれど、声色には強い不信感が混ざりこんでしまう。
「だから奏多。お前、今から行って、見てきてくれ」
予想通り。
(まったく、人使いが荒いんだよ、彼方衆の大人たちは)
奏多が不承不承了解するまで、一分の時間を要した。
※
優衣はドアを開けるなり急いで手を洗うと、リビングへと走ってテレビのリモコンに飛びついた。夕方の幼児向け番組を見るためだ。
普段は「おねえちゃん、遊んで!」とうるさい優衣も、この時間だけはテレビとのにらめっこが最優先。ものすごい集中力でテレビにかじりついていて、話しかけると逆に怒られるほど。その様子を笑顔で見守りながら、文乃はキッチンへと向かう。優衣のテレビタイムの間に、手間のかかる下準備を終えてしまうのが、いつもの日課だ。
包丁でタンタンと食材を刻んでいると、玄関のドアが開く音がした。
(お父さん? いつもよりだいぶ早いけど……)
ドタドタと廊下を走る音がする。お父さんの足音で間違いない。
キッチンに飛び込んできたお父さんが、「文乃!」と呼びかけた。
いつにもまして笑顔のお父さんをいぶかしく思いながらも、文乃も笑顔で出むかえた。
「お帰り。今日は早いね。それになんだかとても嬉しそう。なにかあったの?」
「帰れるぞ! 大阪に!」
「……え?」
文乃は頭の中で、お父さんの言葉を繰り返す。
(かえれる? おおさかに? 帰れる……)
「大阪にって、ほんと⁉」
「ああ! やっとトラブルが片付いた! 今日辞令が出て、九月から大阪勤務だ!」
お父さんは文乃をぎゅっと抱きしめた。
「文乃。ごめんな。お父さんの都合で、まだ子どものお前に、こんなに苦労をさせて」
「ううん。お父さんのせいじゃないよ。私がお父さんと優衣と一緒にいたかったんだよ」
今から三年前、お父さんの仕事に急なトラブルが発生して、生まれ育った大阪を離れなければならなくなってしまった。文乃だけ大阪に残る、という話もあったけれど、自分でお父さんについていくことに決めた。
文乃のお母さんは六年前、優衣を生んだ直後に亡くなっている。家族と離れ離れになる悲しさを、文乃は二度と味わいたくなかった。
この三年間、炊事洗濯、優衣の面倒と、家のことはすべて文乃の仕事だった。お父さんはそんなことはしなくていい、もっと友だちと遊んで来いといつも言ってくれていたのだけれど、文乃は断って家事をこなした。お父さんと優衣の役に立ちたかったのだ。そのことに、後悔なんて全くない。
ただ、引っ越しは急に決まった話だったので、大阪の友だちと――特に、一番仲の良かった親友と、きちんとお別れができなかったことは、文乃にとって深い傷になっている。
学校カバンにつけている、フェルト製のぬいぐるみが目に入る。何の動物かと聞いても「ないしょ!」と言って教えてくれなかったけれど、不器用な親友が一生懸命作ってくれた、文乃の大切な宝物だ。
(帰れるんだ、大阪に。……またハルちゃんに、会える!)
親友との再会が、今から待ち遠しくて仕方がなかった。
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