第10話


「オリビア!」

「っ……!」


 広間からほど近く、小高い場所にある展望台。そこまで無我夢中で駆けてきたオリビアを、ウィリアムが腕を掴んで引き留める。


 その勢いでバランスを崩した彼女を抱き止めた。


「……」

「……」


 互いに何も言えないまま、遠くの喧騒だけが響く。オリビアは微かに震えていた。


 初めて見た夫の不貞に激しく動揺する。愛とか恋以前に、彼は侯爵であり自分は夫人であった。その責任と、これからの事態を考えると不安ばかりが浮かぶ。


 その混乱を落ち着かせるように、ウィリアムが強く抱き締める。大丈夫、と微かに聞こえた声にオリビアも次第に落ち着きを取り戻していった。


 しばらくして、彼女がそっと体を離す。そのままフラフラと近くの椅子に座った。ウィリアムも少し遅れて隣に腰を下ろす。


「ローガン……よね」


 躊躇いがちに聞かれて、悩みながらもウィリアムは「そうだね」と返した。


「残念だけど、間違いないと思う」

「そうよね。ああ……どうしたら」


 頭を抱えて、項垂れる。ただでさえ、最近は評判が落ちてきたサルコベリア家。それに加えて夫の醜聞が加われば、確実に爵位を保てなくなる。


 明らかに困惑するオリビアの手に、ウィリアムがそっと触れる。


 オリビアが顔を上げて、彼は諭すように言う。


「調べてみよう。もしかしたら誤解かもしれない」

「……そうね」


 大きく溜め息を吐いて、彼女は視線を川辺に向けた。


「嫁いでから、必死に動いてきたつもりだったけど…どうしてこうなったのかしら」


 実家は由緒正しい公爵家。父方の祖父が王家の血筋であり、家族は皆、国の要職に就いている。


 当時、侯の爵位に上がったばかりのローガンに箔をつけたい、と嫁に望まれた。両親は最初難色を示したものの、押しきられる形で承諾した。


 オリビアを必ず幸せにすると約束させて。


 だが実際にそうだったとは言いがたい。オリビアは自嘲気味に笑う。


「私、誰かに必要とされたかっただけなのよね。兄が家督を継いで、もう一人の兄は自分の意思で国に仕えている。私も何かしたくて、ローガンに必要とされて、応えようとしたの。でももうそれも終わりね」


 静かに瞳を閉じる。彼女は「ただ」と続けた。


「一つだけ心残りがあるとしたら、気軽に城下に来ることが出来なくなることね」

「城下に?」

「そう。ここには良い思い出が多いから」


 開けた瞳に紅の光を宿す。オリビアがウィリアムの方に向き直して、笑みをこぼす。


「ふふっ、あの紙の花もそうね。今考えると、とても素敵な人だったのかもしれないわ。だって散らない花を贈ってくれるなんて。冷静でいながら情熱的じゃない?」


 オリビアの言葉に、彼はフッと表情を和らげた。


「それはそうだね。消えない愛と、その願いが込められているから」

「あなたもそう思うのね。私、あの時後ろ姿を見たの。今の夕陽と同じオレンジ色で、まるであなたと同じ……」


 ウィリアムの髪に手を伸ばす。途中でハッとして慌てて手を引く。けれどその手を彼が掴んだ。


 戸惑いに瞳を揺らすオリビア。ウィリアムは強く見つめて続ける。


「……そう、同じ。気づいて欲しくて、見て欲しくて花を贈ろうとしたけど出来なくて、手紙を送ったんだ」

「手紙?」

「花の形に折って」

「もしかして中に……?」


 頷かれて、オリビアが目を瞬く。ウィリアムは彼女の手を強く握って、その気持ちを示した。


「もし……あの家を出たいと思ったら、花を開いて欲しい。あとのことは任せてくれていいから」


 ウィリアムの言葉にオリビアが、迷うように視線を流す。俯きがちに落として、小さく頷いた。

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