第1章 ─絡まる紐、解かれる理─

1. あたたかな存在

 太陽が建物の裏へと沈み、窓の外は徐々に暗闇へと姿を変えてゆく。壁時計の針はちょうど20時を指しており、そろそろご飯時だという頃だ。長針が2、3回ほどカチッと動いた後、ビニールの手提げ袋を両手に持った遊馬が扉を開けて部屋に入ってきた。と同時に袋から肉の香ばしい匂いが漏れ出し部屋中に充満する。


「お待たせ。楓は晩飯牛丼でも良かったかな?」


「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

「えー、特上焼肉弁当が良かった~」


 楓の後方から奴が声を重ねる。それも楓の声に似せたつもりの汚い裏声で。


「ほらぁ、楓ちゃんも焼肉弁当をご所望だぞ。次回から気を付けることです」


 えっ私?と言わんばかりに目を丸くし、彼女はブンブンと顔を横に振った。


「神原、楓をあまり困らせるなよ」


 その一言で神原のおふざけをあしらい、買ってきた牛丼をソファに座るふたりの前に並べる。遊馬も楓の隣へと座り、三人並んで牛丼弁当の蓋を開けて箸を進めた。


「そういや遊馬さんや、楓ちゃんの寝床なりはどうするおつもりで? 僕らの汚部屋に泊まらせる訳にもいかんでしょ」


「それならそこの空き部屋を楓の部屋にしようと思っている」


 遊馬は部屋奥の空き部屋の方を指さす。多量の埃を纏った山積みのダンボールが部屋の扉を塞いでおり、部屋自体長らく使われていないことが容易に想像できる有様であった。

 ふたりは牛丼を口に流し込むようにして平らげ、部屋の中の様子を確認しに行こうと席を立つ。そこでまず立ちはだかる第一の障害物である山積みのダンボール。2m程の高さまで積み上げられており、少し押したくらいではビクともしない。押す役と支える役に別れ、交互に役割を交代しながら少しずつダンボールの位置を扉の前からずらしていく。額から汗を流し、ハァハァと息切れを起こす男ふたりの姿を、楓は遠くのソファから牛丼を食べながら静かに見つめていた。


 ダンボールを全て退け、ようやく扉を開けられるようになった。その頃には楓も牛丼を食べ終え、ふたりの横で部屋の扉が開かれるのを今か今かと待っている。

 遊馬がドアノブに手をかけてゆっくりと扉を押すと、ギーギーと軋む音を立てながら真っ暗な部屋が姿を現した。


「電気電気っと......」


 暗闇の中を手探りで照明スイッチを押し、部屋の照明を付ける。だがいくら経てど、部屋から闇が取り払われない。


「あーあ、これ電球切れてますね」


 第二の障害、部屋の電気がつかない問題に直面した。スマホのライトで照らしながら部屋に入り、目を凝らしてなんとか部屋内の状況を確認する。部屋にあった物は机と椅子、謎にペットケージとまたもや山積みのダンボール。


「わお、ほんっと何もないっすね」


 寝具もなければ収納棚すらも無い。この部屋で寝泊まりするための家具や物が圧倒的に足りていないのだ。


「こりゃ明日は買い出しだな。今日のところはどうしようか、俺か神原の汚部屋に泊まらせる訳にもいかないし。とりあえず楓にはビジネスホテルにでも泊まってもらうか」


「私そんなの気にしないですよ!遊馬さんさえ良ければお宅に泊まらせてください」


「いやいやいや、楓の想像してる汚部屋の数倍は酷い部屋だからさすがに悪いよ」


「いやいやいや、私の事なんてお構いなく」


 この後もいやいやいや論争が数分ほど続き、結局は楓の押しに負けて遊馬宅に泊まることになった。


 研究所の門をくぐり、枯れ葉の落ちた街路樹の通りを進んで帰路につく。冬の夜に冷やされた空気が身にしみ、横一列に並んで歩く三人がみな同じように肩をすくめていた。真ん中を歩く楓が口のあたりを両手で丸く囲み、暖をとろうと息を吐く度に白息しらいきが漏れ出し寒空に消えてゆく。その様子を見かねた遊馬はポケットから使い捨てカイロを取り出し、楓に手渡した。


「わっ、カイロだ。はぁぁ、あったかい......ぬくぬくだぁー」


 カイロを両手で覆ったり頬にくっつけたりと凍えた箇所を温める。寒さで強張っていた表情も、次第に緩んで綻びを見せた。


「遊馬さんや、僕にもカイロをくださいな」


 遊馬は先ほどとは反対側のポケットからカイロを取り出し、神原に向けてショートパスのようにカイロを送った。


「あざっす。はぁぁ、あたたかい。ぬくぬく......ってあれ?」


 楓と同じ仕草をしていた神原が突如フリーズした。2秒ほど静止した後、ゆっくりと手元のカイロへと視線を落とす。


「ぬくぬく、じゃない。冷えてるこれ。鉄粉がダマになってるじゃないっすか!」


「え、だってそれ使用後だもん」


「遊馬さんヒドい、可愛い部下にこんな仕打ちだなんて」


「悪いがカイロはもう無いんだわ、諦めてくれ」


「ははーん、じゃあ左手だけさっきからずっとズボンのポケットに突っ込んでますけどその中には何があるのかなー」


 ニヤニヤとした表情を浮かべながら遊馬の方へと一歩ずつ距離を詰めていく。


「な、何もないぞ。ポケットに手を突っ込むのは癖なんだよ。おい止まれ、ニヤニヤしながらこっちに近づくな」


「白状して渡してくれたらやめますよ。楓ちゃん、遊馬さんの左腕を取り押さえるんだ!連携プレーで嘘を暴くぞ」


「えっ!?」


 咄嗟の振りにどうすれば良いか分からず、楓はあたふたとしていた。


「こら神原、だから楓を困らせるなって」


「え、えーと。こう、ですか?」


 楓は不慣れながらも申し訳程度に遊馬の左腕を掴み、一応は協力したぞと言わんばかりの微笑を浮かべる。


「お、楓ちゃんナイス。これで遊馬さんは左腕が動かせない。ポケットの中身を確認するなら今がチャンスだ」


 誰に向けて言う訳でもなく、わざとらしく状況説明を口にしながら遊馬のポケットに向けて手を伸ばす。


(空気読めよ!って圧が凄いな......)

 遊馬は軽く掴まれた腕で抵抗することなく、ポケットに伸ばされる神原の手をじっと受け入れた。


「ぬくぬくカイロ発見!これで遊馬さんの嘘が暴かれた。やったね楓ちゃん」


 神原は楓に手のひらを向けてハイタッチを促す。意図をくみ取った楓は同じように手のひらを向けてハイタッチを交わした。


「ほんと、神原は何やってんだか」


 神原とハイタッチをする楓はこれまでにない程に顔を綻ばせていた。楓の笑みに釣られてか、遊馬も知らぬ内に口元を綻ばせていた。当の本人は自覚していないのだろう。その姿を見てふたりは目を見合わせ、再び笑みをこぼすのであった。


 道中分かれ道で神原と別れ、遊馬と楓のふたりきりになった。先ほどまでとは打って変わって、ふたりの歩く薄暗い路地は静けさに包まれていた。それもアスファルトの上を歩く際の環境音が明確に意識化されるほどに。


 神原と別れてからというもの、ふたりの間にこれといった会話はほとんどなく、やや気まずい空気が漂っていた。これまでの神原の存在が如何に有難いものであったかを今になって痛感させられる。


 何か場を持たせられる話題は無いかと頭をフル回転させ、やっとのことでひねり出したひとつの話題。


「楓って朝はご飯派? それともパン派?」


 長きの静寂の中、突如話しかけられたものだから、楓は数秒遅れて返事を返す。


「朝......ですか? 私はどちらかというとパン派ですね。遊馬さんはどっち派です?」


「私も今はパン派だ。前までは自炊してたからその残りのご飯を朝に回してたけど、最近はめっきり止めてしまったな」


「へぇ。遊馬さんが自炊してたなんて、今日の食生活からして考えられないです」


 遊馬は痛いところを突かれた、と軽い笑みを浮かべてへらへらとした態度を取る。


「まあ今では晩は毎食牛丼だからね、返す言葉がない。にしてもお恥ずかしい場面を見られたものだ」


「また、始めてみませんか? 私が来たことを機っていうのはおこがましいかもですが、これを機にまた自炊生活を」


「自炊ねぇ。うん、善処するよ。また近いうちにね」


「あ、それ絶対やらないやつです。こう見えても私、結構料理上手なんですよ? しっかり隣でサポートもしますから、ね」


 一度は逃げようとした遊馬だったが、怒涛の自炊催促攻撃に行く手を阻まれ同意せざるを得ない状況になってしまった。状況を顧みず更なる逃げ道を模索しようとするも、楓の圧をも感じる笑みにより、そんな甘い考えは程なくして粉砕されたのであった。残された道はただひとつ。


「う、うん。じゃあ、サポートお願いします」


「はい、お願いされました」


 ニッコリと白い歯を見せ、その横でグッと親指を立てて見せた。



 それから数分ほど暗がりの路地を歩き進んだ頃、今度は楓から遊馬に声がかかる。


「遊馬さんのお家ってどんなところなんですか。一軒家、それともアパート?」


「アパートだよ。ちょうどこっちの職場に越してくる時に格安で見つけた物件なんだ。立地条件も良し、風呂ありトイレありで部屋も新しくて綺麗だし、結構良いところだよ」

 ある一ヶ所にだけ目を瞑れば...ね。


「へぇ、どんなところなんだろ。楽しみ!」


 期待を膨らませ、鼻歌混じりに足を進める楓。それもとんでもないものが待っているとも知らずに。


 更に暗がりの路地を歩き進み、外装がいかにもな二階建てのアパートが視界に入ってきた。遊馬がアパート前で足を止め、楓も同じように少し遅れて足を止める。


「ここだ、着いたぞ」


 遊馬は自身の部屋のある二階を見上げながら言った。


「着いた?」


 アパートと両隣や正面の比較的新しく綺麗な一軒家をちらちらと交互に見比べながら、まるで信じられない物を見るかのような顔で立ち尽くしていた。


 酸化が進んで所々虫食いのような穴が空いている焦げ茶色の階段や手すり。加重をかけようものなら今にも崩れそうなボロボロ具合だ。更に外装には枯れたツタが壁一面を張り巡らせている。


「え、廃墟に......かな?」


「いや、俺の家だが」


「外見お化け屋敷やん!」


 間髪を入れずにツッコミを返す楓。これまでの楓からは想像できない敏速っぷりに思わず怯まされそうになる。


「おぉ、随分鋭いツッコミだこと。だが待つんだ楓、外見はこんなのだけど中は普通に綺麗なんだ」


「いやまさか、外見がこんななのに内装だけ綺麗だなんてあるわけないじゃん」


 半信半疑で先を行く遊馬の後ろにピッタリとついて行き、嫌に軋む階段を足早に上がった。上がってすぐの部屋で足を止め、遊馬が玄関の扉に鍵を差し込んでガチャンと解錠音を響かせる。扉のその先に広がる光景とは......


「嘘......だ」


 楓の絶望に満ちていた顔が一瞬にして希望に満ちた顔へと変貌した。


 真っ白な壁に木目調のフローリング。内装は新築かと疑う程の綺麗なさまであった。


「ほら楓、そんな所で突っ立ってないで早く入る」


「あっ、はい。おじゃましま〜す」


 玄関を上がってすぐに広がるのは7畳ほどの間取りの部屋。遊馬は足早に部屋の隅にある電気ヒーターのスイッチを入れ、三角座りをして吹き出し口の前を陣取る。手馴れた一連の動作の素早さに見とれて棒立ちする楓に、はやくこっちにおいで!と手招きをする遊馬。それに応えて楓も足早にヒーターの方へと駆けていった。ふたり揃って吹き出し口に手をかざし、はぁ~っと安堵の息を漏らしながら寒さで強張った体をほぐしてゆく。


 冷えた体も部屋も暖かくなってきた頃、遊馬は玄関横のキッチンにある電気ケトルのスイッチを入れに重い腰を上げ、のそのそと動き始めた。カチっとスイッチを押す音を響かせた後、キッチン台に軽く腰をかけて楓の方へと向き変える。


「変な家でごめんね。見ての通り中は至って普通だから、まあゆっくりくつろいでいってくれ」


「いえいえ、泊めて頂けるだけでも十分ありがたいのでお構いなく。あっ、そういやさっきは外で色々と生意気言ってすみません。なんかつい反射的にあんな感じになっちゃって」


「あーあれね、そんなこと気にしなくてもいいのに。というかあんなラフな感じで接してくれる方がこちらとしても助かるかな。あまり畏まった感じってのが好きじゃなくて」


「そうなんですか。じゃあこれからはもうちょっとラフな感じでいくね」


 遊馬はにこやかな笑みを浮かべて首を縦に振っていた。


 それからしばらく他愛のない会話を交わし、電気ケトルから再度カチッと音が聞こえた頃。遊馬は両手にマグカップを持ち、楓の座るヒーターの前へと戻ってきた。


「楓はコーヒーダメだったよな、抹茶ラテでも大丈夫?」


「うん大丈夫、と言うよりめっちゃ好きだよ。ありがと」


「そうか、それならよかった」

 

 カップを手渡し、遊馬もヒーター前の定位置につく。互いに顔を見合わせ、なんとはなしに互いの持つカップを軽くぶつけて乾杯を交わした。


 体の芯まで温まり、ホッとした空気が流れる中、楓が抱える疑問を遊馬に問いかける。


「ねえ、遊馬さんはどうして私を匿ってくれたの?」


「え、楓が脅してきたから?」


「その節は本当に申し訳ありませんでした。じゃなくて、普通あんな脅し程度じゃ誰も見ず知らずの女の子を匿おうって決断には至らないよ。だから何か別の理由でもあったのかなって気になって」


「そんな理由だなんて大したものはないよ。楓を見ていると昔の自分を思い出してね、なんだかなって感じたからかな。それでつい放っておけなかったんだ。あとは楓が悪い子ではなさそうだったからってのが理由だな」


 予想外の軽い理由に、楓はきょとんとした表情を浮かべていた。


「え、本当にそれだけの理由なの?」


 ああ、と遊馬はうなずきを返す。


「遊馬さんってお人好しというか、優しい人なんだね。その優しさに私は救われた訳で、遊馬さんには本当に感謝の気持ちで一杯だよ。本当にありがとうございます」


「いいよいいよそんなこと。そうだ、先にお風呂にでも入っておいで。風呂は洗ってあるし、あとは湯を貯めて入ってくれればいいから」


 面と向かって感謝を伝えられるのが照れくさいのか、露骨に話題を変える遊馬に引っかかりながらも、楓は素直に風呂場へと向かった。


 キッチン付近まで進んで足を止め、くるっと180度回転して遊馬の方へと顔を向ける。


「遊馬さん、これからよろしくお願いしますね」


「こちらこそ。これからよろしく頼む、楓」

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