終末理論と鈍色の君
むつぎ
プロローグ
夢見る研究者と不思議な少女
次のニュースです。先日11月10日にNASAは直径130m程の小隕石「XX1995」が金星方面から地球に向かって急接近しており、地球と衝突する可能性があると発表しました。XX1995は11月27日に地球に最接近するとのことです。これに対し専門家は──
「どこの局も隕石の話題で持ち切りっすね。そんなに美味しいネタなのかね......」
テレビ台前のへたりにへたったソファに、ふてぶてしく座る男が口を開いた。
「ってあれ、
部屋の奥側からコーヒーメーカーの煩い抽出音が響いてくる。と同時に遊馬が反応を返す。
「ああ聞いてるさ。最近じゃ殺人なり強盗なり、芸能関連のスキャンダルすらも少なくなったからな。どこの報道陣もネタに飢えてるんよきっと」
「まあ毎日似たようなネタをこすって放送されるよりかはよっぽどマシっすけどね。遊馬さんの地元のローカルテレビ局みたく」
コーヒーの抽出を終え、遊馬は謎の生物が描かれたマグカップを片手にソファへと足を進める。ソファの後ろ側で足を止め、行儀悪く座る男の後頭部にマグカップをコツンとぶつけてやる。
「おい
「あらやだわ、遊馬さんったら暴力的♡」
「うるせぇ、黙って足を引っ込めてろ」
邪魔な足をはたくようにして退け、「よっこらせ」と無意識に言葉を発しながらソファに腰掛ける。
「あれ遊馬さん、僕の分のコーヒーは?」
「ああ、これがお前のな」
ダウンのポケットに手を突っ込み、レシートらしき紙クズと共に出てきた缶コーヒーを手渡した。
「えぇ...遊馬さんポケット汚い。てかこれいつのっすか?」
「大丈夫、ポケットに入ってたってことはそんな古いのじゃないから」
ティッシュで飲み口を入念にふき取り、汚れが残っていないか再度確認した後、プルタブを開けてコーヒーを口にしていた。
「ここのラボにもそろそろ人手欲しいっすね。秘書さんとか募集しません? 可愛い子限定で」
「まあ確かに俺ら研究者だけじゃ手が回らんことも多いしな。また近い内に募集かけてみるか」
ソファにもたれ、コーヒーを口にし、日々の疲れをふうっと息と共に吐きだす。ただふたりボーっとテレビに視線を向け、静寂な空気が部屋を包む。
......まあそんな静寂は数秒と続かず、すぐに神原が口を開いた。
「もしかしたら地球に衝突するかも!?とか世間で騒がれてますよね、んな訳ないのに。信頼度なんて何とかの大予言みたいなもんだろ」
「破片だけでも地球に飛来してくれりゃあの実験ができるのにな......」
「え、遊馬さんあの実験本気だったんすか!? 「机上の空論だったね~」で終わった話じゃなかったんすか。いくら何でも無茶が過ぎますよ」
「
遊馬と神原、ふたりは究極の理論『超弦理論』の完成を夢見る物理学者だ。超弦理論とは、世に存在する全ての物質は
「あいつら今に見てろ。人工知能界隈に寝返ったことを後悔させてやる」
「はぁ、遊馬さん結構根に持つタイプっすよね。そんなのだから彼女できないんですよ」
マグカップに向いていた穏やかな視線が刹那にして神原の方へと向けられた。
「おい神原、俺はお前とは違う。お前は作れないだけで俺は作らないんだ」
「その異様な食いつき具合が真実を物語ってますよ」
そんな他愛のない会話を交わしながら、神原は重い腰を上げて部屋の端に並ぶ書類棚へと足を進める。スライドガラスを開けて仕切られた区画からそれぞれ数枚ずつ書類を取り出し、計十数枚の書類を抱えてソファへと戻ってきた。
「実験概要は以前に聞いたものと変わってないですよね」
「あ、ああ。そのつもりだが」
突飛な行動に驚倒したかの様な表情で反応を返す。口をポカンと開け、視線だけ神原に向けられた状態でフリーズしていた。
フリーズしている奴を後目に神原は書類を数枚ずつクリップで止め、纏めたものを遊馬の前に差し出す。
「このフォーマット通りに実験概要、必要機材等々入力しておいてください。実験場所に関しては落ちる可能性の高い場所を推定しないとなんでそれは後程調査しましょう」
普段の口調や雰囲気とは一転し、幾分饒舌に話を進める神原の姿を見て驚嘆の声を上げそうになる。
「なんだ、神原も随分とやる気じゃないか。んでこの入力はいつまでに終わらせれば良い?」
「20時までです」
「神原さんや、今何時か時計を確認してから物をおっしゃった方が...」
「現在時刻は17時50分で、締め切りは20時です」
真剣な眼差しが冗談でないことを物語る。
「はい、間に合わせます...」
「よろしい」
もはやどちらが上司か分からない状況になっていた。
神原がふぅっと息を吐きだし、張り詰めた空気がいつもの穏やかな空気に書き換わる。
「まあ実際は隕石の欠片すら落ちてこないでしょうし、一応の準備ってやつですよ。遊馬さんいつも言ってるじゃないっすか、年末ジャンボも買わなきゃ当たらんって。あれと一緒っすよ」
「まさか自分の言葉を逆手に取られるとはな。にしても神原の行動力はほんと凄いもんだよな、その点だけは尊敬しないとだわ」
「だけとはなんっすか。他にも色々尊敬すべき所があるでしょうに」
といつもの他愛のない会話を部屋に響かせ、この後遊馬は地獄の二時間を過ごした。
11月25日、小隕石最接近日の2日前。NASAから世界を震撼させる凶報が発信された。飛来中の小隕石が分裂し、直径80m程の隕石が進路を変えて地球に衝突するとのこと。推定落下地点は日本関東に佇む保高山山頂付近、周囲半径30kmは山々に覆われている場所である。推定落下地点から半径15km程度に強力な衝撃波と爆風が及ぶとされ、半径100km以内に住む者に避難指示が発令される事態となった──
いつものカフェインの匂いを部屋に漂わせ、ふたりはよれたソファに深く腰掛けて安堵の息を漏らす。ふたりだけでは膨大な手間とコストを要するプロジェクトであった為、以前に遊馬らと深い関わりのあった研究者を対象に実験の協力要請を行っていた。なんとそのほとんどが快く受諾してくれ、多大な協力を仰ぐことに成功した。お蔭で今日という日が訪れるまでになんとか実験準備を終えることができたという訳だ。
実験の実施内容はかなり無茶が過ぎるものであった。降り注ぐ小隕石に対して加速器で高速に加速された陽子を放出し、小隕石側の粒子と衝突した際に発生する現象やエネルギー、物質等を調査するという内容だ。小隕石側の未知情報が多い点や外乱の影響が計り知れない点が不安要素ではあるが、今後の界隈の研究に貢献するデータが得られる可能性があるならと皆が声を上げ、実現に至ったのである。
「にしてもよく皆あんな要請を受諾してくれましたよね。実験内容はともあれ共犯者になってくれたことに驚きです。悪いこと、皆でやれば、怖くない。ですね」
「共犯者だなんて聞こえの悪いことを言うな。明日の一部の出来事をお国さんに黙っておくだけじゃないか。何も全て無断でやろうって訳じゃない」
「まあ僕も首謀者のひとりなんで何もいえないっすけどね」
テレビに映し出されている緊急速報に視点を固定した状態で神原が独り言の如く呟く。
「明日、色々と上手くいくといいっすね」
「ああ、そうだな。明日は色々な意味でターニングポイントになりそうだ」
翌日、保高山山頂付近に直径80m程の小隕石が落下した。落下位置や衝撃波、爆風が及ぶ範囲など、事前にシミュレートによって事細かに算出されていたこともあり、人的被害は最小限に抑えられたとのことだ。落下地点から広範囲に凄まじい衝撃と轟音が地面を伝い、絶大な恐怖を数多くの人々に植え付けた大災害であった。
一方大災害の裏で秘密裡に行われていた遊馬らの実験は無事遂行された。
11月28日、小隕石が落ちた次の日。彼らは保高山と呼ばれていた場所に訪れている。衝突地点には直径400mに及ぶ大きなクレーターが形成されており、辺りを覆いつくしていた緑も爆風により地の色一色に塗り替えられ、かつて緑広がる大きな山が佇んでいたことを想像させない程の惨状であった。
昨日の実験より、落下地点付近の場のエネルギー量や発射した陽子との衝突による発生物質の計測結果が得られた。得られたデータには興味深い特徴が多く表れており、平たく言うと実験は想像以上の大成功に終わった。
だが問題はそこではない。実験ついでで得られた隕石落下時のデータに異変があった。事前情報から推定されていたエネルギー放出量に比べ、実際に計測されたエネルギー放出量が遥かに小さいのだ。更に隕石が落下した瞬間とは異なる時刻に膨大なエネルギー放出が確認されていた。
これら不可解な結果を目にした彼らは、すぐさま詳細を探るべく現地調査に踏み込んだというわけだ。
岩石や木々の破片が散乱する足場を慎重に踏みしめて、一歩一歩クレーターの方へと足を進める。辺りに遮るものが無いからか肌を刺すような冷たい風が絶えず吹き荒む。遊馬は冷たい風から身を守るように肩を窄めて歩き、神原は遊馬の体を盾にするような配置で歩幅を合わせて歩く。
「謎のエネルギー放出の正体、ずばり隕石落下に乗じてターミネーターとかそんな類の奴が現れたんじゃないっすかね」
「タイムスリップねぇ、できるもんなら俺もしてみたいもんだよ」
「ほう、なんか変えたい過去とかお持ちなやつっすか?」
「ああ、今まさに過去を変えたいと思ってるさ。一応は上司の俺を風除け代わりにするような奴と出会わないようにな」
「なんだバレてたか。てかそうと知ってたなら肩を窄めないで下さいよ。風除けの面積が減るじゃないっすか」
「本当にこいつ俺をなんだと思ってやがる...」
とそんなこんなで足を進めること10分。目的のクレーターの前に到着し、ふたり揃って足を止めた。目の前一面に大きな穴が形成されており、直径400mは伊達でないと実感させられる。
巨大な大穴の迫力と足下の絶壁に足がすくむも、グッと恐怖を堪えて何か変わったものはないかと崖の下に顔を覗かせる。だが辺りを見渡すもただ焦茶色の抉れた地面が広がるのみで特筆すべきものは見当たらなかった。と思われたが、ふとクレーター中央付近に目をやると何やら人らしきものが倒れている姿が視界に入った。
「おい神原、人だ。人が倒れてる!」
「まさか、遊馬さん日頃の疲れが溜まって幻覚でも見てるんじゃないっすか? なんたってここは隕石が落下した場所っすよ。仮に逃げ遅れた人がいても跡形も無く消し飛んでるはずです」
故にこの場に人なんて居るはずがないと。不謹慎極まりないことを吐かすも、ごもっともな論であることに違いない。だけど、だけどだ。実際目の先に人が倒れているのだ。
「よく見てみろ、ほらあそこだ」
「うーん、よく見えないっすね」
これでは埒が明かない。疑心暗鬼な様子の神原の手を掴み、崖同然のクレーターの斜面に腰を沿わせて滑り降りようとする。突然の行動に慌てふためく神原を、赤子をあやすかの如く宥め、説得を交えて半ば強制的に崖を降りることを決断させた。
中心に近づくにつれて鮮明になる人の姿、体格や服装から少女とも見える。足早に少女の元へと駆け寄り、生存の有無を確認する。
体を揺するも声かけをするも反応は無い。喉仏のすぐ横の頚動脈に指を当てようとすると、手に微かな息が吹きかかった。どうやら呼吸はしているみたいだ。
「本来なら救急を呼んでやりたいところだが...」
呼べない理由があるのだ。この辺り被災地は現在立ち入り禁止区域となっている。区域の境界では今も警備隊がバリケードの如く並んでいるらしい。表の理由も裏の理由も知らないが、まあそれくらい厳重に一般人の立ち入りを阻止しようとしている訳だ。
「でもこのままこの子を放置する訳にもいかないですしね。とりあえず僕らで保護します?」
「仮に救急呼んだとしても直ぐに来るとも思えないしな。とりあえず連れ帰ろうか」
遊馬が二人分の荷物を持ち、神原が少女を前に抱く。二人が滑り降りた反対側に比較的なだらかな斜面を発見し、そこから脱出を試みることにした。
「意識の無い人間ってこんなに重いんですね。細身だからそんなにって思ってましたけどここまでとは。遊馬さん、荷物持ち代わってあげましょうか?」
「どっち持とうが重量は対して変わらんと思うぞ。そんなことよりさっさと歩け」
「そういやこの子の服装、やけに綺麗ですよね。もしかして僕らと同じ侵入者なんすかね?」
薄いカーディガンに下はロングスカート。全体的に薄手な服装でやや季節外れ感がある。寒くないのだろうか。まあそれはいいとして、髪や服装、靴と何から何まで不自然なまでに綺麗な姿であった。
「少なくとも被災者である線は消えたな。もしかしたら神原の言う通りかもしれん」
「あるいはターミネーター的存在ってのも捨てきれないっすね」
「お前それでも学者か?」
「はぁ、これだからユーモアと冗談の効かない人ってのはいつまで経ってもモテ、フガッ!」
遊馬の大きな掌が神原の口元を力強く覆う。両手が少女によって使えない神原は、抵抗できずにフガフガとよく分からぬ言葉を発していた。
少女を抱えて歩くこと一時間。ようやく緑ある木々や半壊した建物のあるエリアに到達し、道路脇に止めていた車の所まで戻ってきた。少女を後部座席に寝かせ、遊馬が運転席、神原は助手席へと乗り込む。
至る所で道路陥没や大きな亀裂が発生しており、辛うじて通れる経路を選択しながら車を走らせる。神原が後部座席の方へと胴をひねって顔を向け、自身の着ていた黒のダウンコートを少女の上にそっと掛けた。
「この子本当にどうします? ある程度離れた所の病院に搬送してあげましょうか」
「とりあえずそれが一番だよな。適当な所で倒れてましたとでも言って病院側に引き渡すとしよう」
「病院まで送ってやるからもう少し頑張るんだぞ」
神原は少女に軽く手を添えて励ましの言葉を掛けた。その刹那、鉛直上方向の大きな衝撃が車内に伝わり、後部座席で横になっている少女の身体が宙に浮いた。
「悪い、アスファルトのデカい割れ目の上通ってしまったわ。神原も後ろの子も大丈夫か?」
「僕は大丈夫っすけどそれより...覚ましたみたいっすよ」
「さました? なんだそれ?」
後部座席からシートとダウンの擦れる音が聞こえた。
「痛い...ってあれ? ここどこ?」
衝撃により目を覚ました少女が体を起こし、前方の二人の姿を交互に見つめる。
「なんだ、後ろの子が起きたのか?」
「はい、そうみたいです」
これが互いに初対面であり、更に意識の無い少女が男二人の車に乗せられている状況。誘拐か何かと誤解されかねない最悪な状況に取り巻かれていた。少女は自身の置かれた状況を理解するや否や臆面を露わにする。対して神原は笑みを浮かべて「怖くないよ~」と顔で少女に訴える。神原の不気味な笑顔が恐怖に拍車をかけたのか、少女の表情が更に強張った。
地獄のような空気の中、恐る恐る少女が口を開く。
「あ、あの。私って今誘拐されてる感じですか?」
「ち、違う。誘拐だなんて決してそんなことはしてない! クレーターの中で倒れていた君を俺らで保護しただけなんだ」
「おお、遊馬さん必死の弁明っすね」
「容疑を掛けられているのはお前もだぞ。このままだと...」
「そっか、僕たちの豚箱行きは確定しちゃいましたか。短い人生だったけど楽しかったな。ご飯が不味くないといいな。米はコシヒカリがいいな」
「クレーター、クレーター。クレーターってことは」
戯言を吐かす神原を気にも留めず、少女は奥深くに眠る記憶を手繰り寄せるかのように「クレーター」という言葉を呟き続けていた。
「あの、もしかしてこの辺りって小隕石の落ちた保高山付近だったりします?」
「ああそうだ。と言うか君もそれを知ってここまで来たんじゃないのか?」
「あ、うん。そうだ、そうでしたね。なんかすみません」
「そういえば君、あんな場所に何の用があったんだ?」
「んーとですね。人探し、ですかね」
人探し?あんな場所で?
不思議なことを言う子だなぁとフロントミラー越しにふたりが顔を合わせる。
「その探している人ってどんな人なんだ?」
「詳しくは分からないんです。ただ会えば分かる。そんな気がしているんです」
思いの外掴みどころのない漠然とした返答に、返す言葉が上手く見つからず思い悩む。しばらくの沈黙が続き、地味に気まずい空気が車内を漂った。
神原が突然何かを思い出したかのように再度胴をひねり、少女の方へと顔を向けた。
「突然すみませんね。僕らの誘拐犯の疑いについてなんですが」
「あ、さっきは疑っちゃってごめんなさい。もうお二人のこと誘拐犯だなんて思ってませんから」
前方二人からどっと安堵の息が漏れる。不自然に強張っていた遊馬の顔も、表情筋が緩まりいつもの表情に戻っていた。
ある程度会話を交わす内に打ち解けてきたのか、少女から話を振ってくるようになった。どこから来たのかとか、ふたりはどういう関係なのかとか、そんな些細な話題を起点に、他愛のない話を繰り広げていた。
先ほどまでの重い空気とは打って変わって、暖かく心地の良い空気が車内を満たす。そんな中、神原がふと冷たい空気を吹かせる。
「遊馬さん。この子もう元気そうな感じですけど、病院どうします?」
「でも万が一のこともあるからな、一応病院には連れて行っておこう」
「それはダメっ!」
突如、温厚だった少女が声を大にして叫んだ。柄にも無さそうな少女の言動に呆気に取られるふたり。そんなことはお構いなしに少女は言葉を続ける。
「大丈夫、体調も何も全然大丈夫だから病院なんて行かなくていいよ!」
少女は何かを危惧しているかの様で、表情や震えた声からその必死具合が伺えた。
「そ、そうなの...か。じゃあ君の自宅近くまで送っていこうか。今この辺の公共交通機関は全部止まって──」
「あの、お願いがあります!」
少女は遊馬の言葉を遮るように声を重ねた。
「どうか、私をお二人の元で匿ってくれませんか?」
少女と話していく内に確信へと変わっていく違和感。病院や警察等の公共施設に行くことを強く拒み、自宅や学校についての問いに関しては分からないの一点張り。要は公的機関に自身の存在を知られたくない、身辺に関する情報は掴まれたくないということだ。これら如何わしい言動から推測される少女の正体はずばり『家出少女』ではないかと。二人は密かに確信を持っていた。
いつもの如くカフェインの匂いが部屋に漂うが、今日は少し甘い匂いも混じっている。
「神原、もう一個ガムシロ取ってくれ。まだ苦いみたいだ」
「もう自販機でジュースでも買ってきた方が早いんじゃないっすか?」
そんなことを言いながらもガムシロップを一個余分に手に取り、少女に優しく手渡す。少女はペコリとお辞儀をする。
「こんな狭っ苦しい場所で悪いが、まあゆっくりしてくれ。何か足りないものがあればいつでも言うんだぞ」
「あれだけ猛反対してた遊馬さんが、結局は今の異様な環境に一番順応しているってなんか変な感じっすね。最初の威勢はどこへやら」
「うるさい。決まったもんは決まったんだ」
「なんか、すみません。脅すつもりなんて無かったんですけど、つい咄嗟の勢いで。でもそうでもしないと願いを聞き入れてくれないと思って。」
車内で少女が自分を匿ってくれと懇願してきた時のこと。初め遊馬はもちろんのこと猛反対をした。いくら直前で打ち解けて少し仲良くなったからといっても所詮は赤の他人。ましてや未成年かもしれない。家出した女子高生を社会人男性が自宅に匿い、後に未成年者誘拐罪とやらで検挙されたという実例を何度も耳にしたことがある。そんなものに巻き込まれるのは御免だ。
という訳で猛反対をしていた遊馬だったが、少女のある言葉で一瞬にして状況は一転した。
──「遊馬さん、でしたっけ。今私が置かれている状況は世の人の目にはどう映るでしょうか。もしも、ですよ? 私がお二人から離れた後に誘拐されていたと警察に駆け込めばどうなるでしょうね」
その後の流れは容易に想像がつくだろう。遊馬には遊馬なりの考えがあってか、案外すんなりと少女の願いを快諾した。まあそんなこんなで今に至るという訳だ。
「最低なことをしてしまったことは重々承知です。本当に申し訳ございませんでした。でもお二人が唯一の希望だったから。このお詫びはいつか必ず」
「君、もうそれは聞き飽きた。もう謝るのはいいって言ってるだろ、その気持ちだけで十分だ」
「お詫び、ねぇ...。そうだ、この子にここの手伝いをしてもらうってのはどうです? この前に秘書さん募集しようかなとか言ってたじゃないっすか」
「確かにそうだな。うん、そうしよう。神原、偶には良いことを言うじゃないか」
「はい、私にできることなら任せて下さい!」
「そういやまだ名前を言ってませんでしたね。私、
「楓って言うのか。よろしく、楓。私は遊馬と言う。こっちのちゃらけた奴が神原だ」
「よろしく、楓ちゃん。いや、ちゃん付けはキモイか?」
こうして異例な形でラボに若いお手伝いさんが加わり、新たなラボでの日常が繰り広げられるのであった。
ープロローグ 完ー
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