第20話 デッサン~Side黒~
木曜日の放課後。
俺は、白石の家に来ていた。
リビングのテーブルに、二人で座っている。
テーブルの上には、白石が父親にねだって買ってもらったという解剖学図鑑。1万円もしたという。
『アーティストのための美術解剖学図鑑』。
白石が、ページをめくりながら言う。
「エロには筋肉、脂肪が大事なの」
「……この前言ってたな」
俺は頷く。
「上腕二頭筋、三角筋、広背筋……」
白石が図鑑を指差す。
「全部、ちゃんと載ってるわ。これで、もっと良い絵が描けるわね」
俺は頷く。
「でも……」
白石が、少し言いにくそうに。
「……何だ?」
「図鑑は、わかりやすいけど」
白石がページを見つめる。
「実物を見ないと、わからないこともあるわ」
「……実物?」
「そう。実際の人間の体」
白石が真剣な顔で言う。
「筋肉がどう動くか。
体がどう曲がるか。
影がどうつくか。
全部、実物を見ないとわからない」
「……」
俺は黙る。
確かに、そうだ。
図鑑は便利だが、静止画だ。
実際の人間の動きは、図鑑だけじゃわからない。
「だから……」
白石が、少し顔を赤くする。
「……何だ?」
「あたし描いたの」
「何を?」
「あたしの身体」
「……は?」
「実物の身体。裸体」
「は?」
俺の声が、裏返る。
「あたし、自分の体のデッサンを描いたの。本当の身体にまさる資料はないわ」
「……マジか」
「マジよ」
白石が真剣な顔。
「鏡を使って、色々なポーズで」
「……」
……白石が、自分の体を描いた。
頭の中が、真っ白になる。
……どれだけの覚悟だったんだ。
一人で。
鏡の前で。
自分の裸体を。
それを描くなんて。
……俺には、できない。
そんな勇気、ない。
でも、白石は、やった。
作品のために。
エロを描くために。
「……」
白石が、顔を赤くする。
……すごいな、白石。
「べ、別に、見せてもいいわよ」
「え、いや──」
「見たいんでしょ?」
「……」
俺は答えられない。
見たい。
正直に言えば、見たい。
でも――
……恥ずかしい。
白石の裸体を、見るなんて。
「……じゃあいいわ」
残念なような安心だったような。
「あなたの覚悟はそんなもんだったってことね」
白石がスケッチブックを閉じようとするのを手で止める。
「……おい待て」
「……何よ」
「悪かった。見せてくれ」
「……ふん」
白石が立ち上がる。
「ちょっと待ってて」
白石が自分の部屋に入る。
白石が離席中、俺の頭の中はぐるぐるしていた。
……え?
あの美人の白石のヌードのデッサンを見るのか?
しかも俺を嫌っていたはずだろ?
いや、でも。
白石は、いい作品を出すために覚悟を決めたはずだ。
俺だって。
見る覚悟も持つべきだ。
深呼吸する。
数秒後。
スケッチブックを持って、戻ってくる。
「……これ」
白石が、スケッチブックを差し出す。
「仕方ないわね」
白石がスケッチブックを差し出した。
「……見て」
俺は、恐る恐る受け取る。
手が、震える。
……これを、開くのか。
白石の裸体が、描かれている。
覚悟を決めて――
ページを開く。
……。
様々なポーズの白石が、描かれていた。生まれた姿の白石の、だ。
立ち姿。
振り返る姿。
座っている姿。
そして――
官能的なポーズ。
すべて、丁寧に描かれている。
胸の形。
くびれ。
曲線。
細部まで、描かれている。そこには一切の妥協がない。ぼんやりと曖昧に書いた絵ではない。胸だってちゃんと先まで描かれている。
一作目と違い、ちゃんと骨や筋肉の流れが想像できるような絵になっている。
そう。本来だったら隠したいであろう部分も、容赦なく。
「……っ」
俺は思わず前屈みになる。
……まずい。
興奮してる。
白石の裸体を見て――
興奮してる。
……いや、何を考えてるんだ、俺は。
でも、視線が離せない。
美人でプライドの高い白石の、色々なポーズ。
屈辱的だったろうに。
それを、俺に見せてくれている。
……白石の身体は、こうなってるんだ。
ページをめくる。
次のページ。
さらに、官能的なポーズ。
背中を反らせている白石。
脚を組んでいる白石。
全部、エロい。
資料のはずなのに――
エロい。
「……あんまり見ないでよ」
白石が、顔を真っ赤にして言う。
俺は視線を上げる。
白石が、恥ずかしそうにしている。
「見ろと言ったのはお前だろ。どっちだよ」
「……っ」
白石が、さらに顔を赤くする。
「だって、恥ずかしいもん」
「……そりゃ、そうだろ」
俺も恥ずかしい。
白石の裸体を見て――
興奮してしまった。
沈黙。
お互い、何も言えない。
白石が、小さな声で言った。
「……見て」
「……え?」
「ちゃんと、見て」
白石が俺を見る。
真剣な目。
「ちゃんと、評価して」
俺は、もう一度スケッチブックを見る。
白石の裸体。
細部まで、丁寧に描かれている。
上腕二頭筋の盛り上がり。
三角筋の丸み。
広背筋の流れ。
前鋸筋のギザギザ。
大胸筋から脇へのライン。
全部、筋肉を意識して描かれている。
……すごい。
白石は、本気だ。
自分の体をデッサンして。
筋肉まで、意識して描いている。
恥ずかしかっただろうに。屈辱的だったろうに。
しかもそれを嫌悪していたはずの俺に見せるなんて。
……覚悟、決めてるんだな。
しばらく、スケッチブックを見ていた。
白石が、突然言った。
「どう?」
「……何が?」
「……エロい?」
「……っ!」
俺は思わず顔を上げる。
白石が、真剣な顔で聞いている。
「興奮した?」
「……っ」
「あたしが、ものすごく恥ずかしい思いして描いたの。だから、ちゃんと見て、評価して?ねえ興奮した?」
答えられない。
でも――
白石は、待っている。
答えを。
……覚悟を決めるんだ。
俺は、深呼吸する。
「……した」
「……え?」
「興奮した。すごく。その立ち上がれないくらい──」
白石は視線を俺の下半身に落とし、顔を赤くする。
それでもなお続ける。
「『隣の席の吸血鬼』よりちゃんと興奮できる絵になってる?」
「ああ。圧倒的に違う。こちらのほうが間違いなくエロい」
白石が、目を見開く。
「……そう」
顔が、真っ赤。
「……」
「……」
無言。
二人とも、真っ赤。
何も言えない。
しばらくして。
白石が、小さな声で言った。
「……評価のためのデッサンよ」
「……わかってる」
「変な意味じゃないわ」
「……わかってる」
でも――
……もう「資料」だけじゃない。
俺も、白石も。
わかっている。
これは、もう「資料」だけじゃない。
二人の関係性が、変わってきている。
俺は、スケッチブックを閉じた。
白石に、返す。
「……ありがとう」
「……っ、何よ」
「お前の覚悟を受け取った。俺も覚悟はしているつもりだが、お前にも覚悟を見せないとな。ちゃんとインスピレーションももらったよ」
「……そう」
白石が、スケッチブックを受け取る。
「……恥ずかしかったんだからちゃんと活かしなさいよ」
「……ああ」
俺は頷く。
……白石の裸体。
……細部まで。
……一生忘れられなさそうだ。
脳裏に、焼き付いている。
曲線。
筋肉。
すべて。
「あたし、これだけ恥ずかしい思いしたんだから、次の作品、絶対良くするわよ」
「……ああ」
「黒澤も頑張りなさいよ」
「……もちろんだ」
俺は頷く。
「……じゃあ、今日はこれで」
白石が立ち上がる。
「……ああ」
俺も立ち上がる。
「……そろそろ帰るわ」
白石が見送りに、玄関まで来る。
「……また、打ち合わせしましょう」
「……ああ」
「次は、プロットの相談ね」
「……わかった」
玄関のドアを開ける。
外に出る。
振り返ると、白石が立っている。
「……じゃあな」
「……うん」
白石が、小さく手を振る。
……白石。
最近、よく考える。
白石のこと。
以前は、ライバルだった。
大嫌いだった。
でも、今は――
……パートナー。
それ以上の、何かを感じてる。
白石の涙を見た時。
白石の裸体デッサンを見た時。
胸が、ざわついた。
……この感情は、何だ。
まだ、わからない。
でも、一つだけ、確かなことがある。
……白石と一緒にいると、楽しい。
俺は、家に向かって歩き出した。
夕陽が、眩しい。
……次の作品、頑張ろう。
白石と、一緒に。
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