冷たい床
佐藤一彦
帰省・再会
私は数えるほどしか葬式に参列したことがない。
初めての葬式は曽祖父が亡くなったときだったはずである。その後は十年ほど出ていなかった。
これから語るのは、昨夏に執り行われた祖父の葬儀の後、私の身に起こった不思議な出来事である。
当時私は大学の三年生で、奈良県の奈良市に住んでいた。
ようやく前期が終わり、長い夏休みに入った翌日の朝、実家の母親から「祖父が亡くなった」という知らせを受けた。
私はすぐに新幹線に飛び乗り、東京駅で軽食を購入して、実家のある岩手に向かった。一ノ関駅に着いたのは昼頃で、そこからさらに大船渡線に乗った。千厩駅で下車する頃には日が少し傾いていた。
駅には父が迎えに来ていた。
「久しぶり」
と父は言った。「二年ぶりだな」
ただでさえ陰気な表情がさらに暗くなっていた。
車に乗り込み、祖父の家がある藤沢というところへ向かった。少年のころ嫌になるほど通った道が、相も変わらぬ姿でその土地に横たわっていた。
国道から小道に入って大堤の横を走る砂利道を抜けると、大きな木造の屋敷が現れた。矢口邸である。京都の寺社仏閣の山門をそのまま小さくしたような門の横では親戚らが受付をしていて、そこに
叔父は絶えずやってくる弔問客に頭を下げており、疲れもあってか顔には翳りが見られた。
車を降りて玄関へ行くとちょうど妹が出てきた。妹は高校三年生であり、受験生真っ只中にも関わらずいそいそと手伝いをしていた。
続いて母が出てきたので、部屋を訊ねて荷物を運び込むことにした。
私たち家族が泊まる部屋は、玄関真正面の階段を登った2階にあった。東西に延びた廊下の西端にあり、十畳ほどの広さである。
壁に飾ってある掛け軸の下には、先々代が山で獲ってきた雉の剥製が鎮座している。つがいの二羽である。子どもの頃、私はこれがとても怖かった。野生動物の力強い眼差しに睨みつけられているような感じがしていたのだ。
私は家族分の布団を敷こうと思って押し入れを開けた。
奥には黒光りする大きな箱がある。幼少期、一度これを開けようとして祖父にこっぴどく叱られたことを思い出した。祖父はこの箱に関しては頑なに関与を拒み、そこにはどこか怯えるような表情さえ窺えた。
まるで狩りをする鷹のような、恐ろしく鋭い眼光だったのを幼いながらに覚えている。
布団を敷き終わり、ごろりと寝転がった。すぐに他の手伝いをしなくてはならないところだが、私はなんだか疲れてしまって仰向けになってぼーっとしていた。
天井の木目が一瞬鋭くこちらを睨みつける動物の目のように見えて少し驚いた。
刹那、祖父のことが脳裏に浮かんだ。
祖父は機械のように日々を生きる人間だった。毎日朝から晩まで農作業に勤しみ、夕食を済ませばすぐに風呂に入って寝室へ行く。そしてラジオを少し聴いて眠りに就く。祖母が若くして亡くなった後、祖父は五十年近くその暮らしを続けていたのだという。
厳しくはあったが、それでいて優しい人間でもあった。他人の長所を見つけるのに長けていたから人望も厚かった。今日の弔問客の多さが、それを如実に表していた。
しばらく祖父についてあれこれ考えていると、障子張りの襖を開けて父が顔を出した。弔問客が多く、まとまった夕食の時間がとれないので、時間帯を分けて家族ごとに食事をすることになったという。私たち家族の順番は午後八時頃で、あと二時間以上あった。私が手伝えることといってもあまりないので、その間少し近所を散歩することにした。
真夏の夕方とあって、まだ太陽は沈まなそうだった。自然の中だからか少し涼しく感じる。
大堤の横を抜け、国道沿いをしばらく歩くと藤沢の中心街に至る。
コンビニに行こうと思い立ったが、この町にはコンビニがないことを思い出した。
仕方なくスーパーに向かった。品数も多くはない。
ふらふら歩いていると、生鮮食品コーナーに見知った男がいるのに気付いた。男もこちらに気付いたらしく、私の顔を見るなり、目を見開いて駆け寄ってきた。
「おぉ!久しぶりだなぁ!」
直也は私の親戚にあたる。
同い年で、小さい頃はことあるごとに遊んでいた。私が市内の別場所に引っ越した小学四年生以降には遊ぶ頻度はだいぶ少なくなったものの、親戚の集まりの度に顔を合わせていたからよく覚えている。
同い年ではあるが体躯は圧倒的に大きい。
肌が浅黒く焼けていたので、どうしたのかと訊ねると、最近海釣りにハマっているという。
彼は私の肩を軽く叩き、
「本当に久しぶりだなぁ、
と嬉しそうであった。
今は盛岡の大学で教師を目指して勉強しているという。なるほど、彼のような好青年なら生徒も言うことを聞くだろうな、と私は思った。
彼とは軽く世間話をして、さらに「明後日飲みに行こう」という話でまとまった。
彼が去ったあと、私は三ツ矢サイダーとあんぱんを買ってレジへ向かった。レジは三台あるが、客の少なさ故か一台しか稼働していなかった。
そこにはまた見覚えのある姿があった。白く透明感のある肌に、目尻の下がった優しい顔立ち。小学四年生まで、ずっと隣にいた懐かしい人だ。
「いらっしゃいませ」
彼女は言った。そして私に気づくやいなや、「真次君!」と驚きの声を上げた。
「久しぶりですね」
私も笑顔で返した。
彼女は
「おじいさま、亡くなられたのね…」
「はい、僕は間に合いませんでした」
「そう、残念ね…。私、明日伺おうと思っていたの。家もなかなか余裕がなくて…」
「分かりました。叔父に伝えておきます」
その後少しだけ雑談をして、私は帰路についた。
山縁が太陽の残光で輝いていた。ヒグラシの声が、国道沿いの林でうるさいほどに響いていた。
山門をくぐり、玄関の戸を開いたのは午後七時を回ったころだった。
まだ祖父に線香をあげていないことに気付いたので、買ってきたあんぱんとサイダーを冷蔵庫に入れてから、弔問客に混じって仏間に足を向けた。
仏間は一階の最も西側にあり、晩年の祖父が過ごしていた書物部屋の真横にある。
実は仏間の奥側にもう一つ部屋があったのだが、曽祖父がコンクリートで固めてしまったという。そこに何があったのか、なぜ曽祖父はこの部屋を塗り固めたのか、祖父が死去した今となっては親戚一同誰一人としてわからなくなってしまった。
祭壇に置かれた祖父の遺影は、いつもの厳しい表情そのままだった。頬の肉は落ち、痩せ細った祖父を見ると、やはり最期に立ち会えなかったのが悔やまれた。
線香をあげ終えて部屋に戻ろうとすると、ちょうど母がやってきて
「夕飯の番だよ」
と笑みを浮かべながら言った。
私は早めに食事を切り上げ、ある場所へ向かった。
食堂を出て、歩けばギシギシと軋む階段を二階分上がる。最上階、三階の西端に少し新しい扉があり、そこを開けると、これまた新しい空間が現れる。新しいと言っても、このオンボロな日本家屋の中で新しいだけなので、一般的には古めの部類に入るであろう。
そこは祖父が私たち孫らのために増築した小部屋である。雨の日は何もすることがなく、退屈そうに過ごす孫たちを見て、祖父が児童書や図鑑、小説などをここに集めたのだ。そのおかげで、幼少期の私や、たまに集まりで顔を出す直也などは、雨の日もここで本を読んで退屈することなく過ごした。
私は江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」をスッと取り出し、赤いカーペットに寝転がって読み始めた。
少し埃っぽい匂いがしたが、それも含めて懐かしく感じた。
読み進めて一時間ほど経っただろうか。ふと天井を見た。
剥き出しの白熱灯がぶら下がっているのを見つめていたら、蛾が一羽入ってきた。黒茶色の汚い蛾である。
私は無意識のうちにそいつの動きを目で追っていた。そいつは電球の回りをふわふわと飛び回ったあと、少し開いた窓から飛び去っていった。
瞬間部屋を風がふぅっと通ったので、自然と目線は出入り口に移った。
一瞬、そこに誰かが居たような気がした。しかし見てみても誰も居ない。背筋に冷たいものが走った。
時計の針は午後九時四十五分を指していた。
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