五月の猫
冬野
五月の猫
「不況の中で疫病蔓延だな。やれやれ、オリンピックは中止になると思うかい?」
ガラガラ声で猫がしゃべった。あまりにも、自然に猫がしゃべるものだから、僕は驚くことを忘れていた。
「さあね。でも、政府はやる気満々だろ」
小山はそう返答した。あまりにも自然に会話を成立させたこの同級生に、僕はまた驚きを通り越してしまった。 つまりは呆然としていた。状況をみていた。僕の脳みそは冷静だったし、日常的作業としてのシナプスは正常だった。……はずなのだが。
「君はどう思う?」
猫は僕のほうをちらりと見た。正直、猫からこんな風に『話しかけられ』ても返答に困る。そもそも本当にこいつ(猫)がしゃべってるなんて信じられるか。小山の腹話術? そんな器用な芸当ができるとはな。つまらない冗談に費やす努力があるなら、数学Ⅰの勉強をすべきだ。春先、高校のウェルカムテスト的な試験で、赤点を取ってしまい僕と小山だけそろって数Ⅰの補習を受けたのは記憶に新しい。ま、最終的に小山のほうが点数が良かった。くそ。
「……あー。そうだな。やるんじゃないかな、オリンピックには大金費やしてるわけだし」
猫は舌打ちした。猫の舌打ちなんてはじめて見た。
「金か。まったく不思議なものだ。金は造ることもできる。もともとないところから」
何が、『まったく不思議なもの』だ。今、僕は不思議それ自体に直面しているぞ。どこにでもいるようなアメリカンショートヘアの猫がしゃべってるんだからな。しかも結構なデブ猫だ。それきり黙ってしまった。猫が黙る。『まったく不思議なもの』だ。一度しゃべるのを見てしまうと、黙ることがかえって不安を煽る。 僕は小山を見た。小山もこちらを見ていた。ニヤニヤしていた。 いったい、どうなってるんだ。 僕は声に出さずに問いかけた。だが、小山はニヤけた顔のまま前方へ向けた。説明なしか。僕も小山の見ているほうを見た。なにもないただの住宅地。明日から学校が休みになる。小山の家で一緒にゲームでもしようと向かっていた途中だ。コンクリートで舗装された道の脇に、解けずに残っている雪の塊がある。僕はそれを蹴った。 この地域では、五月初旬でもまだ雪がある。雪の塊といっても、氷の出来損ないのような物質に変化しており、おまけに泥をかぶり、黒く汚く湿った物体でちょうどサッカーボールほどだ。しかし、蹴ると……。
「くっそ! 痛え」
大きさはサッカーボールほどだが、重さはボウリングの玉くらいある。僕程度のキック力でクリーンヒットを与えたところで、ダメージを受けるのは僕の足のほうだ。
「子どもだねえ」
どちらが言ったのか分からなかった。もしかしたら両方かもしれない。振り返って確認する。バカにしたのはどっちだ。
「コンビニでも寄ったらどうだ」
「何か買わせようって言うんだろ。オマエの食い物ならあるよ」
「それを早く言え」
猫がコンビニとか言うんじゃねえよ。だから、小山よ。コレどうなってんのさ。 「まあ、ウチにあがんなよ」
最初からそのつもりだってーの。説明聞かせてもらえるんだろうな? あまり期待できない気がするぜ……。
五月、終わりの始まり。無いアタマをフル回転させる必要があるらしい。ここで大人しくしてはいけない。そう直感があった。すぐ消える湯気のような手ごたえの無い直感だったが、今振り返るとソレの根っこは数学Ⅰより困難で長く続く問題につながっていた。しかし、僕はそれを逃してしまう。かすかな警報。危険を知らせる虫のしらせ。五月のある日から始まったメーデー。
小山の家の前で猫が振り返った。 『ここから先は逃げないことだ。逃がさないことだ。』 そう言った猫は門扉の上に飛び乗った。目線が合う。 「どういう意味だ?」
『逃げるのはいつも君の方だ。それは止めることを私は願っている。ま あ、それなりにやればいいさ』
その時、空が暗くなったのを感じた。カラスが大量に空を埋め尽くした。 ぎょっとして身構える。 『命はひとつだけど、証明はできないんだよ。』 その声に導かれて猫に視線を戻す。門扉にいたはずの猫が2匹になっていた。 にゃあ。 と声が響く。 にぁあ にゃあ にゃあ 周りを見渡す。 猫が増えていく。 地面を埋め尽くす。 よくみると少しずつ色が違う。 『いくつもの命はいくつもの君だ。それも証明はできないんだがね』
不況も、疫病も、オリンピックももう関係がなかった。 異変はもう起こっている。
小山が僕の手を取る。 「大丈夫。一緒に行こう」 僕は握り返す。少し手が冷たい気がした。 小山の家に入る。 僕は猫になっていた。 「大丈夫だよ」 小山の声が聞こえた。 「いつから猫だった?」 僕は聞く。 「さっき」 さっき? 「そう。さっき。でも大丈夫。これから一緒だからね」 これから。 僕は無邪気に小山と一緒にいられることを喜んだ。異変の中でそれが最善の事のように思えた。 猫の僕は小山に抱かれた。鼻を近づけて小山を確かめる。いや、小山が僕を確かめていた。 「ほらね、意外といいだろ」 小山が笑った。 僕も笑う。 そうだな。悪くないかも。 小山は窓を開けた。風の匂いが静かに心を満たしていった。 『これから、不思議なことが起こっても大丈夫』 そう思えた。 外では猫たちが鳴いていた。 にゃあ。 にゃあ。 にゃあ。 暗闇が迫るように声は僕の中にも入り込んできた。少し咳き込む。宇宙の遠くまで、世界の奥の方まで僕そのものが、はらはらとほどけて広がる。今までが夢のように感じる。小山の体温を感じる。 「疫病が流行ってるけど、オリンピックは開催するのかな」 小山が聞く。僕は知るか。そんな事はどうでもいい。 メーデー、メーデー。 小山に少し爪を立ててそう伝えながら、優しく包まれている僕は小さなサイレンを喉で鳴らした。 僕は最後に自分の名前を思い出そうとした。 いや、どうでもいいか。 にゃあ。 外の声が僕の声と重なって溶けた。 もはや誰が鳴いているのか分からくなった。 世界は閉じて静寂に入った。もう不安はなかった。誰ががどこかで鳴いても。
朝が来るころ、猫が一匹小山の家の前にいた。その猫は僕のようで、小山のようでもあった。 にゃあ。 それが誰の声だったのか、もう僕にはわからなかった。 風がひとつ。流れていった。 世界の呼吸は続いたまま。 僕たちはそこにいた。 ーーーーにゃあ。それは誰の声でもかまわなかった。そしてそれで十分だった。
五月の猫 冬野 @FUYUNO_METAL
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