第7話 闇の使者
雪の残る朝。
深川の町は、白い息とともにゆっくりと動き始めていた。
焼け落ちた神崎屋の蔵は、黒く焦げた骨のように立ち尽くし、
通りを行く人々が遠巻きに眺めては、囁く。
「火の粉が飛んだらしい」
「いや、放火だ」
「黒鉄の商人も運が尽きたか」
宗一郎はその人波を静かに歩いていた。
羽織の裾にはまだ煤が残り、指先には微かな焦げの匂い。
けれど、その眼差しには一片の動揺もない。
ただ、冷えた空気の向こうに何かを見つめていた。
「火は消せる。だが、人の欲の炎は消えぬ……」
焦げ跡に手を当て、宗一郎は小さく呟いた。
その時、背後から控えめな足音が近づいた。
「宗一郎様、ご無事で何よりです」
声の主は鵜飼だった。
顔には疲労の色がにじんでいる。
「奴ら、昨夜は五人。だが、一人だけ逃げました」
「逃がしておけ。追うより、泳がせるほうが早い」
宗一郎は淡く笑い、瓦礫の上に視線を落とす。
「だが、火を放った理由は?」
「……“何者か”の命によるものだと。名は分からず」
宗一郎は眉をわずかに寄せ、
焦げた柱の先をじっと見つめた。
雪の上に残る黒い炭が、まるで何かの文字のように並んでいる。
「鵜飼、しばらく俺を探すな。店の者も動かすな」
「宗一郎様は……?」
「古い借りを、返しに行く」
――その夜。
浅草寺の裏手、風に消えそうな灯が一つ。
古びた茶屋「柳屋」の戸を、宗一郎は静かに開けた。
店の中には、人影がひとつ。
沈香の匂いがほのかに漂う。
その香りを、宗一郎は覚えていた。
十余年前――
まだ商いも知らぬ若造だった頃、
この香を焚く師の背中を見て、
“商人とは何か”を教わった。
「……まさか、お前が“鬼面”の背後にいるとはな」
ゆっくりと顔を上げた男が、杯を掲げる。
黒い羽織に白い襟。
痩せた頬に、冷ややかな笑み。
――神尾源蔵。
かつて宗一郎を拾い、商いの道を教えた恩師だった。
「久しいな、宗一郎。いや、もう“弟子”ではないか」
「死んだと聞いていた」
「死んだのは“表の神尾”だけよ」
源蔵の声は、かすれながらも力強かった。
「俺は幕府の裏で生きていた。だがな、幕府も商人も皆、欲に飲まれている。
だから俺は“鬼面”を作った。――欲を操るためにな」
宗一郎は沈黙のまま、盃を傾けた。
酒の熱が喉を落ちる。
かつて、同じ手ほどきを受けた手練れの技。
その教えが、今や自分に牙を向けている。
「お前の才は、俺の教えそのものだ」
源蔵は言った。
「だが、お前は“闇を制する術”を知らぬ」
「闇を制する術?」
「闇は消すものではない。抱き込み、使うものだ」
宗一郎は微かに目を伏せた。
胸の奥に、一瞬だけ熱いものが走る。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、恩師の声に心が軋んだ。
「つまり、お前は江戸を支配しようとしているわけだな」
源蔵は笑った。
「商いも政治も同じ。動かすは“欲”だ。
それを読める者が、天下を取る」
宗一郎はゆっくりと立ち上がり、障子の向こうの雪明かりを見た。
「師の言葉、忘れたことはない。
だが俺は“欲”に人を殺させる商人にはならぬ」
「綺麗事を言うな。綺麗事を信じる者ほど、先に死ぬ」
源蔵の声が静かに響いた。
宗一郎は振り返らず、ただ言葉を落とした。
「ならば、どちらが正しいか――いずれ分かるさ」
店を出ると、雪が一段と強くなっていた。
夜空は鉛色、街の灯がぼんやりと滲む。
宗一郎は歩きながら、懐の印籠をそっと握った。
中には、かつて源蔵から託された“神尾”の商印。
それは今や、決別の証でもあった。
「……師が闇を抱くなら、弟子は光で討つまで」
白い息が闇に溶ける。
遠くで太鼓の音が鳴った。
江戸は眠らない。闇もまた、眠らない。
雪の向こうに、まだ見ぬ戦の影が揺れていた。
宗一郎はその先を見据え、口元にかすかな笑みを浮かべた。
――黒鉄の商人。
その名が、再び江戸の闇に鳴り響くのは、もうすぐだった。
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