第4話
愛菜が私を好き。
その事実はしっかりと頭にこびり付いて、まるで服についたシミみたいに消えてくれなかった。
だから、それが気になってしまって、仕事ですら手につかない始末だ。
あの後、家に帰ったら愛菜は居なかった。
まぁ、そんなこともあるかと思った私は、取り敢えず眠って、朝になってから連絡する事にした。
それが、失敗だったのかもしれない。
あれ以降、愛菜は帰って来ていない。
連絡も、繋がらない。
こんなことは今まで全くなかった。
原因は、分かりきっている。
私があの時、あの時に反応しなかったから。
いきなりのそれに、驚いてしまったから。
勿論、心当たりのある所は探した。
でも、どこにも居なかった。
誰も、行き先を知らなかった。
頭の中に、いいしれない不安が満ちていくのを感じる。
そんな内心に反応する様に、チクタクと、時計が時間を進めていく。
チク、タク、チク、タク。
時計のその音は、私の選択をより取り返しのつかない物にしているような、そんな悪寒をも抱かせて来て、思わず私は時計の動きを止める。
電池の抜かれたその置物は、本来の役目を忘れたように沈黙した。
この部屋、こんなに静かだったっけ。
ふと、そんな事を思ってしまう。
静けさ。
そんなことは今までいっさい気にした事がなかった。
でも、今はなぜだかそれが無性に気になってしまって仕方がない。
本来そこにある音が無くなってしまったかの様な、空虚さが辺りを支配する。
そうしてくると段々と部屋が、
確かにそこには物があるはずなのに、持ち主を無くしたそれらが、まるで一切の生命活動を止めたかの様な、そんな虚空にも感じるその空間が、何だか私の居心地を悪くさせる。
こんなに、この部屋は寂しかっただろうか。
確かに私はこの部屋に1人でも暮らしていた筈なのに、持ち主が帰ってこないかも知れないというその事実だけで、その空間は時間の停止したみたいな鬱屈とした感情を私に覚えさせる。
この部屋そのものが、私を非難しているような、そんな感触に何だか居た堪れなくなった私は、眠るでも無くただ、ただ部屋を抜け出した。
夜もふける1時46分。
眠気はあるのに眠れる気がしない私は、目的もなく、散歩でもするみたいに辺りを歩いている。
ふと気がつくと、愛菜とよく歩いた場所ばかりを巡ってしまう。
愛菜は今、どこにいるんだろ。
そう思い空を見上げる。
電飾に照らされたその空間では、星すら見えない暗闇だけが広がっていた。
その暗闇ですら、私の今を指し示している様に思えてしまって、思わず気分が暗くなる。
私は、愛菜の事をどう思っているのだろう。
愛菜は、嫌いじゃない。むしろ、好きだ。
でも、それが果たして恋愛対象としての好きなのか、私には分からない。
でも、ただ一つ言えるのは、愛菜がいないと私は思いの外辛い。
まるで心にぽっかりと空白が生まれたみたいに、なにか大事な物が欠けた感覚になる。なっている。
愛菜は昔から触れ合っている大事な子で、いつのまにか私の人生の深くにまで関わっている子で、私の心の奥底に無視出来ないレベルで入り込んでいて。
愛菜が居ないと寂しくて、虚しくて、まるでプールの底に穴が空いたみたいで、先の見えない迷路に迷い込んでしまった様で。
ああ、私は愛菜が居ないと幸せも溜め込めないのかと、自覚する。
それは、好きと言うのだろうか。
好きと、言うのかも知れない。
でも、その日常は、その幸せは、もう掴み取れないのかも知れない。
その事実が、私の心臓を締め付ける。
愛菜、会いたいよ。
愛菜、また一緒に暮らしたいよ。
私は、私の中に渦巻く大きな、大きなその感情を、情動を自覚する。
愛菜、何処に、居るの。
そんな私の前に、橋が見えて来た。
愛菜はよくここで川の方を覗いていたのを思い出す。
その、そんな橋に、誰かが居た。
その誰かは、あの時の愛菜みたいに川を覗き込んでいた。
その人影は、川を覗いて、柵を登ろうとしている。
すぐさま飛び込みだと理解した。
「待って!」
私は飛ぶ様に走り、駆け寄る。
間に合って、そう思った。
待ってと言った私の声に驚いた誰かは、こちらに振り向い、微かな声を漏らした。
「ひば、な……」
愛菜の、愛菜の声だった。
愛菜は、柵を登ろうとするのをやめて駆け始める。
「待って、愛菜!」
そう叫ぶ私を無視して、駆ける。駆ける。
私も同じ様に、駆ける。
「お願い、止まって、愛菜!」
私達はまるで幼い子供か、あるいは野生動物みたいに、周りも気にしないで走り回った。
次第に、愛菜の足が遅くなって、やがて止まった。
「私の事なんか追わないでよ!」
野に放たれた私達は、近所迷惑なんて、気にする余裕もなかった。
「どうせ私の事なんか興味ないんでしょ、どうせ友達なんでしょ。だったらとっとと忘れさせてよ!」
「出来るわけないでしょ!」
私の声に、愛菜も思わず伏せた顔を上げ、こちらへ振り向く。
目と、目が合った。
愛菜は、泣いていた。
私も、多分泣いている。
息の切れた私達の間に、僅かな空白が生まれる。
今は、その空白がもどかしくて、それを埋める為にも言葉を紡ぐ。
「愛菜は、いつの間にか私の人生に深く関わってるし気がついたら一緒に暮らす事になってたししょっちゅう振られる癖に告る様な女だけどさ!」
「でも、私の前では素を出してくれるし一緒にいて楽しいしいつの間にか私にとって居ないなんて考えられない大事な物になってて」
「愛菜が居ないこの数週間近く何やってもつまんないし楽しくないしふと不安になっちゃっていつの間にか寝れなくなるし不安で不安で、愛菜が何処にいるのか常に気になっちゃってどうしていなくなっちゃったのって考えちゃって」
「あの時即答出来なかったこと本当に後悔してやりなおしたいって何回も思って何回も何て言えばよかったのか気になっちゃって!」
「それで、やっと好きって気がついて」
「待って、今」
「そうだよ、愛菜。好き。友達としてじゃなくて恋人として、好き。だと思う」
「ねぇ、そこは断言してよ」
「だって、さっきやっと自覚したから」
「もぉ、肝心なところで締まらないなぁ」
そう言う私達は、まだ泣いていた。
「それで、さ。良いの? 本当に」
「うん、私、愛菜が居ないとしっくりこなくなっちゃったみたい」
「火花、好き。愛してる。大好き」
「うん、愛菜。私も好き」
「ねぇ、言葉足らなくない?」
「大好き、愛してるよ、ずっと一緒に居ようね、愛菜」
そういうと、私達は互いの唇を重ね合う。
なんだか、心から洗われるような、むしろ乱されるような、そんな何とも言えない感覚だった。
ただ、私達は、互いの唇から互いの愛を、確かめ合った。
「帰ろっか、愛菜」
「うん、火花」
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