神様の後始末

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一章

第1話 神様の後始末

 ——パラパラ、パラ……


 乾いた音を立てて、何かが床に降り積もっていく。


 体育倉庫の中は、いつもより少しだけ明るかった。

 たった一つしかない小さな窓から差し込む午後の光が、埃と一緒に空気の中を漂っている。


 その中心に、一人の少女が立っていた。


 森山モリヤマ蒼葉アオバ。

 白い体操着に紺色の短パン。伸ばしかけの髪が、微かに揺れている。


 彼女は壁に左手を当てていた。


 何をしているのか、一見しただけではわからない。

 ただその横顔は、いつもの教室で本を読むときよりも、ずっと真剣で、ずっと遠い場所を見ているようだった。


 ——パキッ。


 壁に、亀裂が走る。


 いや、違う。

 よく見ればひび割れているのは壁そのものではない。

 壁の、少し手前。空間の表面みたいなものが、パズルのピースの縁をなぞるように割れていく。


 続いて、さっきの音。

 パラパラと剥がれ落ちた“何か”は、床に触れた瞬間すっと透明になり、跡形もなく消えていく。


 「…………」


 入り口からその光景を見ていた少年は、息をするのも忘れていた。


 神空カミゾラ奈多羅ナタラ。

 クラスでは“目つきが悪い元ヤン”として有名な男子生徒だ。


 (なんだ、これ……)


 蒼葉の指先の周りから、空間の皮だけがはがれていく。

 白かったはずの壁の手前に、薄い膜のような隙間ができ、その奥から——。


 うごめく、黒い影が現れた。


 細く長い脚を無数に生やし、うねうねと動く胴体。

 見間違えようがない。昨日、奈多羅の家に現れ、目の前で消えた、あの虫だ。


 ゲジゲジ。


 「……!」


 喉の奥から声が飛び出しかける。だが、空気がからんで音にならない。


 最後のピースが剥がれ落ちると、蒼葉はそっと手を離した。


 まるでそれを合図にしたかのように、ゲジゲジは壁から離れ、床を走り、ひょいと窓枠を登って外へ消えていった。


 何事もなかったかのように、倉庫には静けさだけが戻る。


 蒼葉は逃げていった虫を視線で追うと、ようやく入り口の方に振り向いた。


 ドアの前で固まっている奈多羅と、視線がぶつかる。


 「あら」


 蒼葉は、ほんの少し首をかしげた。


 「なにしてるの、神空くん」


 その声は、教室で聞くときと変わらず、澄んでいて落ち着いていた。


 奈多羅は、ようやく自分の喉が機能していることを思い出す。


 「お、俺は、その……トイレに行く途中で……」


 何を言っているのか、自分でもわからない。

 さっきまで見ていたものが、現実だと認めたくなかった。


 「お前こそ、今の……」


 「そうねぇ」


 蒼葉は一度視線を天井に逃すと、考えるふりをするように小さく唇を結んだ。


 少しだけ間を置き、


 「強いて言うなら、後始末かな」


 と、言った。


 「後始末……?」


 「——わがままな破壊神様の、後始末」


 そう言って、彼女はふわりと微笑んだ。


 その笑みは、教室では見せたことのない種類のものに見えて、

 奈多羅の背筋を、夏なのに冷たいものがするりと走り抜けていった。


 その日の朝、

 自分の名前のことや、この村から出たいことばかり考えていた俺は、まだ知らなかった。


 この村には本当に“神様”がいて、

 そしてクラスメイトの一人は、その神様の尻拭いをしている——かもしれない、なんてことを。


     ◇


 蝉が鳴きまくる音で、世界が満たされていた。


 ジジ、ジジジジジ——。


 耳がバカになるんじゃないかと思うほどの大合唱の中、

 田んぼと田んぼの間の一本道を、一人の少年が歩いていた。


 神空奈多羅は、肩に食い込むカバンの紐を持ち上げながら、前屈み気味に進んでいた。


 「……あちぃ……」


 朝だというのに、容赦がない。

 照り返す日差しが、白いシャツに容赦なく突き刺さってくる。


 左右は見渡す限りの田んぼ。

 その向こうには、分厚い森と、低い山々の稜線。

 人の気配はほとんどない。


 「ここにコンビニでもあればな……」


 思わず口からこぼれた夢物語に、答える者はいない。

 返ってくるのは、相変わらずの蝉の声だ。


 「クソ、絶対こんなとこ出てやる……」


 何度目かわからない決意表明を、誰もいない道に向かってつぶやく。


 三叉サンサ村。

 ここは東方の山奥にある辺境の村で、コンビニも、カラオケも、ボウリング場もない。

 村の外に出るには、バス一本を逃しただけで一日が終わるような場所だ。


 そのくせ——虫だけは、やたら元気に湧いて出る。


 (ゲジゲジ……)


 昨夜のあいつを思い出し、背中に嫌な汗が増える。


 熱湯をかけようとした瞬間、目の前から“消えた”ゲジゲジ。

 夢だった、と思い込みたいのに、どうしても映像が鮮明すぎた。


 「よっ、奈多羅!」


 背中に突然声が飛んできた。


 同時に、視界がぱっと暗くなる。

 高い位置から、すっぽりと影が頭にかぶさった。


 「……うるせぇ。朝から声デカいんだよ、諭」


 振り向けば、案の定。


 柏カシワ諭サトル。

 身長一八五センチオーバー、サッカー部エース、顔面偏差値も高め。

夏の日差しに焼けた腕をぶらぶらさせながら、ニヤニヤとこちらを見下ろしている。


 「だって返事しねぇと、不安になるだろ?」


 「そのうち誰かに殴られるぞ、お前」


 「殴っていいのはお前だけにな」


 諭は軽口を叩き、奈多羅の隣に並んだ。


 二人で歩調を合わせると、道が少しだけ賑やかになったような気がする。


 「しかしさぁ」


 諭は、わざとらしく空を仰ぐ。


 「毎日思うけど、この景色、都会の大学生に見せてやりてぇよな。田んぼと山しかない通学路」


 「じゃあ代わりに通ってもらえよ。俺はその間に勉強して都会に逃げるから」


 「お、出た。いつもの“都会に逃げる”宣言」


 諭は笑いながら、ちらりと横目で奈多羅を見る。


 「でもよ、お前の名前的には、むしろここがホームって感じじゃね?」


 「……は?」


 きた、と奈多羅は心の中で舌打ちした。


 「神空カミゾラ奈多羅ナタラ。神様っぽくてカッコいいじゃん」


 「どこがだ。世間じゃこういうの、キラキラネームって言うんだよ。笑えねぇやつな」


 奈多羅は露骨に顔をしかめる。


 親に聞いた由来は、それなりに立派だ。“空のように広く、神のように強く”——だったか。

 けれど、村の子どもにとってはただの“いじりやすい珍名”でしかない。


 「お前はいいよな。柏諭。爽やかイケメンそうな名前で。中身も見た目も、そのまんまじゃねぇか」


 「そうかぁ? どこにでもいる名前だと思うけどな」


 諭は頭をかき、照れくさそうに笑った。


 奈多羅は、余計にイラッとした。


 身長は平均より少し高いくらい。

 鋭い目つきと、不機嫌そうな顔。

 昔はそれを武器に喧嘩もしていたが、今はただ「怖そう」と言われるだけのパーツだ。


 「……まぁ、俺みたいな名前、そうそういねぇとは思うけどな」


 ぼそっとつぶやくと、諭がニヤッと笑う。


 「そういうとこ、昔から変わんねぇよな。すぐ拗ねる」


 「うるせぇ」


 そのやり取りが終わったころ、校舎が見えてきた。


     ◇


 大三日月高校は、山の斜面に貼りつくように建っている。


 薄くくすんだ外壁に、三棟並んだ校舎は、上から見ると漢字の「三」の字に見えるらしい。

 誰がそんな角度で見たのかは知らない。


 「はぁ……」


 正門を抜けてから、教室までがまた遠い。


 昇降口で上履きに履き替え、長い階段を上り、さらに奥の廊下を進む。

 二年三組の教室は、第一棟のいちばん奥、いちばん上。

 まるで「遅刻しろ」と言わんばかりの配置だ。


 「なぁ、諭」


 階段を上りながら、奈多羅はふと思い出した。


 「虫ってさ、瞬間移動とか、すると思うか」


 「……診断書いるか?」


 即答だった。


 「ちげぇよ。昨日、家でさ——」


 昨夜のゲジゲジ事件を、かいつまんで話す。


 壁に出たこと。

 熱湯を用意して、ギリギリまで追い詰めたこと。

 かけようとした瞬間に、“パッ”と消えたこと。


 諭は、最初こそ真面目な顔で聞いていたが、途中から苦笑いに変わった。


 「いやいや。虫が瞬間移動はねぇだろ。夢じゃね?」


 「俺もそう思いたいけどよ……」


 でも、あの光景はどうにも“夢”で片づけにくかった。


 「それにさ」


 奈多羅は続ける。


 「ゲジゲジが夢に出てくるとか、悪夢にもほどがあるだろ」


 「ゲジゲジ?」


 諭が首をかしげた。


 「なんだそれ。新種?」


 「は?」


 今度は奈多羅が固まる側だった。


 「お前、ゲジゲジ知らねぇのかよ。こう、足がわさーっていっぱいあって、むちゃくちゃキモ……」


 「やめろやめろ想像させんな。ムカデみたいなやつ?」


 「まぁ、あいつもムカデの仲間っぽいけどよ」


 奈多羅がそう言うと、諭は腕を組んでうーんと唸った。


 「少なくとも“ゲジゲジ”って名前は聞いたことねぇな。ムカデとダンゴムシとカメムシならわかる」


 (三叉村のやつで、ゲジゲジ知らねぇやつなんて、いたか?)


 奈多羅は、かすかな違和感を覚えた。

 だが、チャイムがそれをかき消した。


 「やべ、急がねぇとまた林に説教される」


 諭が駆け出し、奈多羅も後を追った。


     ◇


 二年三組の教室は、いつもと変わらない喧騒に包まれていた。


 四×四の机。

 十五人しかいないクラス。

 全員が三叉村出身で、ほぼ全員が物心ついたころからの顔見知りだ。


 「おっす! 今日もギリギリじゃん、二人とも!」


 一番後ろの左端から、よく通る声が飛んでくる。


 今村。

 褐色の肌と逆立った髪がトレードマークの、クラスのムードメーカーだ。


 「お前も朝から声デカいんだよ」


 諭が笑いながら返し、奈多羅は軽く手を挙げただけで通り過ぎる。


 自分の席——一番後ろの右から二番目。

 その左隣には、もう一つの影があった。


 窓際で本を開いている、女子生徒。


 森山蒼葉。


 今日も、ページの上を、静かに視線が滑っていく。

 肩につかないくらいの髪が、窓からの風に揺れ、白い頬のあたりでふわりと跳ねた。


 (……相変わらずだな)


 一瞬だけ見とれてから、奈多羅は視線を逸らした。


 「あら、神空くん。いたのね」


 タイミングよく、蒼葉が顔を上げた。


 「……ああ。おはよう」


 「おはよう」


 それだけの会話。けれど、もう十年以上続く習慣だった。


 チャイムが鳴り、ホームルームが始まる。

 担任の林先生が遅刻してきて、いつものように生徒にいじられ、

 「お前らより大事なものなんか——なんぼでもあるわい!」

 という爆弾発言で教室を笑いに包んでいく。


 そんな騒がしい時間が終わり、最初の授業と最初の休み時間が過ぎたころだった。


 「神空くん」


 左側から、静かな声がした。


 奈多羅は、ノートから顔を上げる。


 横を見ると、蒼葉はいつも通り本を開いたままだ。

 だが、ページの上で止まった指先が、微かに揺れている。


 「今、俺に?」


 「ええ。あなたに」


 蒼葉は視線を本から外さずに、言葉だけをこちらへ向けた。


 「なにか用か」


 「ちょっと、聞きたいことがあって」


 そこでようやく、彼女はページから視線を外した。


 まっすぐに奈多羅を見る、その瞳は大きくて、どこか底が見えない。


 「昨日の夜、小さい生き物に心当たりはある? 例えば……虫」


 「……っ」


 心臓が、一拍だけ大きく鳴った。


 昨日の夜。

 小さい生き物。

 虫。


 条件がぴたりと一致する。


 「……ああ。見たけど」


 奈多羅は、できるだけ平気そうな顔を作った。


 「足がいっぱいあって、キモいやつ。壁に出た」


 「名前は?」


 「えっと……」


 昨日は悲鳴をこらえるので必死で、名前どころではなかった。

 口ごもった瞬間、蒼葉が先に言った。


 「ゲジゲジ」


 「……そう、それだ。ゲジゲジ」


 言われてみれば、その通りだ。

 思い出したくもないフォルムまで、脳内で再生される。


 「それが出てきて、追いかけたけど、途中で見失った。——それだけだ」


 言葉の端で、少しだけ嘘をついた。

 本当は、「途中で見失った」んじゃなく、「目の前から消えた」のだ。


 蒼葉は、じっと奈多羅を見つめていた。

 何かを測るような、静かな視線。


 やがて、小さく頷く。


 「そう。教えてくれて、ありがとう」


 それだけ言って、彼女はまた本へと視線を落とした。


 それ以上、何も聞いてこない。

 「どうしてそんなことを聞くのか」——その一番知りたい部分が、空白のまま置き去りにされる。


 「……なぁ」


 思わず呼びかけかけたとき、チャイムが鳴った。


 キーコン、カーコン——。


 「よっ、神空。次、音楽だぞ。一緒に行こうぜ」


 諭が後ろから声をかけてくる。

 奈多羅は「おう」とだけ返し、席を立った。


 教室を出るとき、ちらりと窓際を振り返る。


 蒼葉は、何事もなかったように、本に視線を落としたままだった。


 (——なんで、あいつは“知ってる”んだ)


 昨夜、俺の部屋に出た虫のことを。

 田舎では当たり前のように出るはずの“ゲジゲジ”という名前を、

 まるで最初からそこに答えが書いてあったみたいな顔で、迷いなく口にした。


 胸の奥に、小さな棘みたいな違和感が突き刺さったまま、取れない。


 このときの俺はまだ知らなかった。


 その違和感が、

 体育館の隅でひっそりと“破壊神様の後始末”をしている彼女へと、

 真っ直ぐにつながっていることなんて。

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