第25話 街の渇き
ミーナと笑い合ったあの日から、数日が過ぎた。
街の空気は、日に日に重くなっているようだった。運河の水位は目に見えて下がり、今では一部の浅瀬で運河の底がぬかるみとなって剥き出しになっている。活気のあった船乗りたちの声は苛立ちに変わり、食料品を扱う店の棚からは、少しずつ品物が減り始めていた。『風の声』が運んでくるのは、ため息と不安ばかり。このままでは、遠からず街の機能が麻痺してしまうだろう。
リラも工房に籠っていることが多くなったが、それは研究に没頭しているからというより、街の不穏な空気を肌で感じ取っているからかもしれなかった。
「……じっとしていても、始まらないか」
僕は肩の上のコダマにそっと指で触れた。
この時間のギルドのような、人の感情が渦巻く場所に行くのは気が重い。だが、この小さな相棒の、石でできた体から伝わるひんやりとした感触は、不思議と僕の心を落ち着かせてくれる。『声なき森』での一件以来、コダマは僕を現実へと引き戻してくれる、大切な錨(いかり)のような存在になっていた。
「行こう、コダマ。ちょっとうるさい場所だけど、一緒なら大丈夫だ」
僕はコダマにそう囁きかけると、情報収集のために冒険者ギルドへと向かった。
ギルドの中は、案の定ごった返していた。運河の異変に関する情報を求める冒険者や商人たちが、カウンターに殺到している。誰もが、目に見えない敵に怯え、苛立っている。
そんな喧騒のなか、ギルドの掲示板に一枚の依頼書が張り出されるのが見えた。羊皮紙に書かれた力強い文字が、ざわめきの中でもやけに目に付いた。
『緊急依頼:アルメ大運河の水位低下に関する原因調査。ギルドマスター、グレンより』
依頼主の名前を見て、周囲がさらにどよめく。ギルドマスター直々の高額依頼。それは、この事態がもはや単なる不景気などではなく、街の生命線を揺るがす危機であることを示していた。
僕は人混みをかき分け、迷わずその依頼書を手に取った。
調査の第一歩として、僕は街で最も船の往来が激しい中央港へ向かった。
そこでは、水位が下がったことで運河の底に乗り上げて傾いてしまった小舟や、普段よりずっと低い位置にある水面が、事態の深刻さを物語っていた。荷を降ろせず、ただ立ち尽くす船乗りたちの背中からは、諦めにも似たうなりが聞こえてくる。
そんな喧騒のなか、ひときわ静かで、しかし誰もが道を譲る一団が僕の目に留まった。その中心にいるのは、上質な服に身を包んだ、冷たい目をした壮年の男。その男が歩くだけで、周囲の空気が凍てつくようだった。
「あれは……」
僕の隣にいた船乗りが、吐き捨てるように言った。
「水運ギルドのサイラス様さ。この街の水路の持ち主みたいなもんだ」
その時だった。小さな運送会社の主人らしき男が、サイラスの前に駆け寄り、地面に膝をつかんばかりに懇願した。
「サイラス様! どうか、どうかお慈悲を! このままでは積み荷が腐ってしまいます! どうか、あなたの管理されている水深の深い中央水路をお貸しください!」
しかし、サイラスはまるで道端の石ころでも見るかのような無関心な目を向けただけだった。代わりに、隣にいた屈強な部下が、せせら笑うように言った。
「使わせてやらんこともない。ただし、積み荷の九割を頂くがな」
「そ、そんな……! それでは我々は……!」
「嫌なら、そこで荷と一緒に腐るがいい」
主人はその場に崩れ落ち、絶望に顔を歪めた。
サイラスは、この危機的状況を好機として、富をさらに独占しようとしている。僕の全身から、血の気が引いていくのが分かった。
僕がその冷酷なやり取りに静かな怒りを覚えていると、サイラスがふと、まるで最初から僕の存在に気づいていたかのように、こちらへ顔を向けた。
人混みを貫いて、二人の視線が交錯する。
サイラスの目に宿るのは、敵意や驚きではない。まるで珍しい品物を値踏みするかのような、冷徹な好奇心と、かすかな愉悦。その視線は僕の全身を舐めるように探り、僕の奥底にある「何か」を見透かそうとしているかのようだった。
背筋に、冷たい汗が伝う。これまでに見てきた獣や荒くれ者とは全く違う、底の知れない知性と悪意。
サイラスは何も言わず、口の端にだけかすかな笑みを浮かべると、興味を失ったように踵を返し、部下を連れて去っていった。
その場に残された僕は、サイラスの後ろ姿を見つめながら、この街を覆う問題が、単なる自然現象などではないことを確信した。
(……あの男……。この街の渇きは、あの男が作り出しているんだ。これは、ただの調査依頼じゃない。見過ごせば、リラやミーナが大切にしているこの街が、あの男に食い尽くされる……!)
僕の胸に、この街を守るための戦いへの、静かだが確かな決意が灯った。
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