第9話 精霊よ、我が声を聞け?

アルメの街へ続く最初の石橋を渡った瞬間、空気が変わったことに気づいた。

聞こえてくるのは、カザマチのような喧騒ではない。街の至る所を流れる水路のせせらぎと、家々の軒先で涼やかに鳴るガラスの鈴の音。匂いは、湿った石と清らかな水、そしてどこからか漂ってくる、心を落ち着かせる香の香り。


何より、この街の土地そのものが清浄だった。人々の想念が作る澱が、絶えず流れる川の水によって浄化されているかのようだ。胸の奥がざわつかない。


(ここは、いい街みたいだ。空気が軽い。君もそう思わないか、相棒?)


僕は鞄の中のゴーレムに心の中で語りかける。

さて、と。この街に来た目的は、呪いを制御する方法を知るという祈祷師を見つけ出すことだ。大声で尋ねて回るわけにもいかないし、まずは風の噂にでも耳を澄ませてみるか。

僕は目を閉じ、意識を風の声に集中させる。


《……魂を癒す者……》

《……言葉で魂を揺さぶる集い……》

《……おお、精霊よ、我が声を聞け……!》


(さっそく、いい『声』をひいた。運がいい。『魂を癒し、精霊に語りかける』……祈祷師の集会に違いない)


僕はその声が聞こえてくる方角へ、足を向けた。風の案内に従い、街の裏通りにある古い集会所にたどり着く。中からは、何やら厳かな詠唱のような声が漏れ聞こえてくる。


(間違いない)


僕は息を殺し、木の扉をそっと開けた。

薄暗い室内。焚かれた香の煙の中、数人の男女が輪になって座り、中央で一人の男が天を仰ぎ、朗々と声を張り上げている。

「おお、漆黒の夜の帳(とばり)に閉ざされし我が魂よ! 君という月光を失い、永遠の彷徨を続ける我が足は、記憶という名の茨に血を流すのだ!」


僕が状況を飲み込めずにいると、入り口に一番近かった女性が振り返り、満面の笑みで手招きをした。

「おお、新たなる魂の同志よ! さあ、こちらへ!」


(同志……? まずい、この人は何か勘違いをしている…)


断る間もなく室内に引き入れられ、空いていた席に座らされる。やがて、すべての視線が僕に注がれた。

「同志よ、今宵は君の魂の叫びも聞かせてはくれまいか? 風のように現れた、新たなる詩人殿!」


(詩人……僕が? え、祈祷師の集会じゃないの!?)


まずい。まずいぞ。いや、「ごめんなさい」と言って逃げ出せばいいのか。

…「ごめんなさい」か…どうもそれじゃ芸が無いな。なんかいい感じのことを言ってこの場を立ち去ろう。僕だって風の声を聴く詩人(?)のはしくれだ。問題無い。


僕は意を決して、ゆっくりと立ち上がった。

「……僕の魂も、一つの詩を詠みたがっているようです」

僕は芝居がかった調子で、言葉を紡いだ。


「風が、川面で僕の名を呼んでいる」

「沈黙した石が、その声を待っている」

「行かなければ。こだまが、消えてしまう前に」


三行だけの、短い詩。室内は、水を打ったように静まり返る。やがて、リーダーらしき男が感極まった様子で立ち上がり、僕の肩を掴んだ。

「……素晴らしい! なんというミニマリズム! 行け、友よ! こだまが消えぬうちに!」


詩人たちに丁重に見送られ、僕は早足で集会所を後にした。

(…通用した。……やっぱり僕には詩人の才能があるのかもしれない。)

とはいえ、失敗は失敗。これからは風の『声』に飛びつくのはやめよう。なんだか知らないけど、ちょっと有頂天になっていたかもな。


すっかり夕暮れ時になり、僕は今夜の宿を探すことにした。今度は慎重に、風が囁いた一軒の宿屋を通りの向かいから観察する。怒声はなく、楽しそうな話し声と、食器の触れ合う音だけ。


(……たぶん、大丈夫……)


僕の鼻に、宿の食堂から漂ってきた香ばしい肉の匂いが届いた。腹が、ぐぅ、と正直に鳴る。それが決め手だった。

カラン、と軽やかな鈴の音が鳴る。中は、想像していた通りの、温かい雰囲気の食堂だった。


「いらっしゃいませ!」

奥のカウンターから、踏み台に乗った小さな女の子がひょっこり顔を出した。年は十歳くらいだろうか。

「お客さん? 旅の人?」

「ああ。一晩、泊まれるかな」

「うん、泊まれるよ! ごはんはどうする? 今日の晩ごはんは、お父さんの川魚の香草焼きだよ。世界一おいしいんだから!」

その純粋な笑顔に、僕の緊張はすっかり解けていた。

「じゃあ、その部屋と、世界一の食事をお願いするよ」


通された部屋に荷物を置き、食堂に戻ると、すぐに食事が運ばれてきた。


こんがりと焼かれた川魚の上には、緑色の香草がたっぷりと乗せられている。レモンを絞ると、じゅ、という音と共に、爽やかな香りが立ち上った。付け合わせは、柔らかく煮込まれた豆と、焼きたての黒パン。

魚の身をほぐして口に運ぶ。ぱりっとした皮の香ばしさと、ふっくらとした白身の優しい甘み。香草の風味が、魚の味をさらに引き立てている。染み渡るような美味しさだった。


満足して部屋に戻った僕は、テーブルの上にゴーレムを置き、その日の出来事を語りかける。

「詩人の会は失敗だったけど、この街はやっぱりいいところみたいだな。食事も美味いしな。明日こそ、本物の祈祷師を見つけよう」

僕は、この水の都でなら何かが見つかるかもしれないという予感を感じながら、静かな眠りについた。

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