第4話 風が、歌う?
古い石段は、思ったよりも長く、空へと続いているように見えた。先頭を歩くリラは、工具袋を肩にかけたまま、まるで散歩でもするように軽快な足取りで登っていく。
僕は少し息を切らしながら、黙って彼女の後を追った。
(何で旅人の僕よりも健脚なんだよ……)
崖の上にたどり着くと、そこは強い風が吹き抜ける、見晴らしの良い台地だった。そして、僕たちの目の前には、奇妙な光景が広がっていた。石と木でできた壁が、いくつも、精密に計算されたであろう角度で設置されている。
「これが、『導風壁』……」
リラがどこか感嘆の声を漏らす。
「街の創設者たちが作った、風を整えるための装置よ。すごい技術だわ」
(予想してたけど、風車の力を使わずに風をそのまま引っ張ってきてるのか……。どういう設計思想だよ。もしかしてこっちの方が風車より前からあったのかな)
僕は目を閉じ、この場所に集まってくる風の声に、深く耳をあわせた。工房で聞こえた不満の声が、ここではもっと鮮明に、大きく聞こえる。
《痛い!》
《ぶつかる!》
《まっすぐ進めないじゃないか!》
まるで、たくさんの子供たちが文句を言いながら、狭い通路を無理やり通ろうとしているみたいだ。僕はその声の渦の中から、一番大きな悲鳴が聞こえてくる場所を探した。
「リラ。たぶん、あの壁だ」
僕が指差したのは、一番端にある、少しだけ傾いたように見える壁だった。
リラは壁に駆け寄ると、専門家の目でその土台を調べ始める。土を指でつまみ、壁と地面の接合部を念入りに確認している。
「本当だわ……。数日前の雨で、少しだけ地盤が緩んでる。それで、壁の角度がほんの数度、ずれてしまってるんだ」
「直せるかい?」
「やってみる」
彼女は工具袋から、てことなる鉄の棒と、丈夫なロープを取り出した。
「私が壁を少し持ち上げる。カイ、あなたは風の声を聞いていて。一番、風が気持ちよさそうに歌う場所を教えて」
「風が、歌う?」
「ええ」
リラは悪戯っぽく笑った。
「あなたの言う『ご機嫌』ってやつよ」
リラが鉄の棒を壁の隙間に差し込み、全体重をかける。ぎしり、と重い音を立てて、壁がわずかに持ち上がった。
「どう!?」
「まだだ! 風が、まだ苦しそうに呻いてる!」
僕は目を閉じたまま、風の声だけに集中する。リラが少しずつ角度を調整していく。やがて、風の不満の声が和らぎ、澄んだ歌声に変わる瞬間があった。
「――今だ!」
リラが素早く、壁の土台に楔を打ち込む。壁が、その位置でぴたりと固定された。
途端に、僕の耳に流れ込んでくる風の声が、心地よいハーモニーに変わった。
《流れる!》
《気持ちいい!》
《これなら、うまく歌えるよ!》
「うまくいったみたいだよ」
僕が目を開けてそう伝えると、リラが額の汗を拭いながら、満足そうに笑っていた。
工房に戻ると、中から大きな歓声が上がった。リラが『風の機織り機』の最終調整をしているのを、職人たちが固唾をのんで見守っている。僕は人々の興奮が発する熱気に当てられないよう、工房の入り口で壁に寄りかかっていた。
(さて、と。僕は僕で、今夜の寝床を探さないとな)
僕は再び風の『声』に耳を合わせた。今度は街の噂話だ。静かで、あまり人の感情が溜まっていない宿の情報はないか。
《……亭主が焼く焼き菓子が絶品……》
《……ナツメグの甘い匂い……》
《……あそこのベッドはふかふかだ……》
風が運んでくる声の欠片の中に、魅力的な情報が混じっていた。
(ナツメグの匂いがする宿か。悪くないな)
やがて、歓声を背にしてリラが工房から出てきた。その顔は、達成感と少しの疲労で晴れやかに輝いている。
「カイ! 直ったわ! 完璧よ!」
「ああ、良かったな」
「あなたのおかげよ、本当にありがとう」
「僕も、面白いものが見られたよ」
僕は礼を言う彼女に、尋ねてみることにした。
「ところで、一つ聞きたいんだが」
「何?」
「この街に、ナツメグの匂いがする宿はないか? それと、医者か、できれば呪術師みたいな人がいる場所を知らないか」
リラは少し驚いた顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
「ナツメグの匂い……ああ、『ナツメグ亭』のことね。北門の近くだわ。静かで良い宿よ。よく分かったわね」
彼女は僕の不思議な耳のことを思い出したのだろう。
「診療所なら、南通りにあるわ。でも、ごめんなさい。呪術師っていうのは、この街では聞いたことがないわね」
「そうか。いや、十分だ。ありがとう」
リラは「じゃあ、またね」と手を振って、工房の中へと戻っていった。
僕は一人、夕暮れのオレンジ色に染まる街を、北門へと向かって歩き出す。カザマチという街が、ほんの少しだけ好きになっていた。
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