おまけ ビターエンド
――あの日から、三年が過ぎていた
春のパリは、いつも少し曖昧だ。
雲の合間に差す陽射しが、街を金色に染める。
カフェのテラスには新しい季節の空気が満ちていて、
その香りは、少しだけアールグレイに似ていた。
私は今日も、いつものように店で紅茶を淹れていた。
観光客の笑い声。
グラスの音。
そして、湯気の向こうに漂う記憶のかけら。
“優”。
その名前を、口の中で静かに転がす。
時間が経っても、言葉の響きだけで胸が少し熱くなる。
午後、カウンターに立っていると、
ドアのベルが小さく鳴った。
振り返ると、そこにいたのは――彼だった。
白いシャツに、少し無精ひげ。
見慣れた目の奥に、もう“迷い”はなかった。
まるで、長い旅の終着点に辿りついた人のような顔。
「……ご注文は?」
それしか言えなかった。
けれど、彼は少し笑って答えた。
「アールグレイを、一杯。」
心臓が痛いほどに跳ねた。
それでも、笑えた。
――あの人は、変わらない。
紅茶を淹れながら、私は聞いた。
「どうして、フランスに?」
彼は少しだけ視線を落とし、
静かに、でも確かな声で言った。
「姉が昔、留学してた場所なんだ。
僕も、ここで少し絵を描いてみたくて。
――彼女の、見ていた風景を知りたくなった。」
その言葉に、私は息をのんだ。
“姉”――でも、本当は分かっていた。
それが、彼自身の“けじめ”であることを。
彼は“私”を探しに来たのではない。
自分の人生を取り戻すために来たのだ。
だから、私はもう何も言わなかった。
ただ、静かに紅茶を差し出す。
「……いい香りだね」
「ええ。少し濃いかもしれませんけど」
「いや、これがいい。……前より、ずっと温かい気がする」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥がじんと熱くなった。
前より温かい――
それは、たぶんお互いが、もう“過去に縋っていない”から。
目を合わせる。
そこには、あの頃とは違う二人がいた。
過去を抱いたまま、それでも未来を向く二人。
外の通りでは、マロニエの花びらが舞っていた。
春風がカフェのドアを揺らし、
アールグレイの香りが外へ流れていく。
「マリー」
「はい」
「君の国の春は、優しいね」
「ええ。……冬を越えた分だけ、やさしくなるんです」
言葉が、風に溶けていく。
もう、沈黙が怖くなかった。
別れ際、彼がカップを置き、
わずかに笑った。
「……ありがとう。
この香り、たぶん一生忘れない。」
それだけ言って、店を出ていった。
ドアが閉まる音。
静寂の中に、残る香り。
――彼はもう、“思い出の中”の人じゃなかった。
今を生きている人だった。
あとで、常連の学生から聞いた。
彼はパリの美術学校で短期研修をしていて、
姉の作品をもとにした個展を準備しているらしい。
テーマは――「記憶の温度」。
そのタイトルを聞いて、涙が出そうになった。
きっと、彼はあの春の記憶を、
“悲しみ”ではなく“作品”に変えようとしているのだ。
夜。
閉店後の店に残った香りの中で、
私は青いペンダントを取り出した。
窓の外では、セーヌの水面がきらめいている。
その光の向こうに、彼のアトリエがあるのだろう。
Je t’attendrai… encore une fois.
――もう一度だけ、待っています。
でも、今度の“待つ”は、
彼の幸せを信じる“待つ”だ。
過去に縋るためじゃない。
未来の彼を、静かに見守るため。
アールグレイの香りが、夜風に溶けていく。
私はその香りを胸に吸い込み、
静かに、目を閉じた。
春のパリの空は、優しい灰色。
もう、泣くことはなかった。
ただ、心の中で――
あの人の笑顔を、やさしく思い出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます