アフターエピソード

翌朝のパリ。

青いペンダントを胸元に揺らしながら、マリーは優の横を歩いていた。

前より少しだけ歩幅が小さく、まるで優のあとにそっとついていくような距離で。


「……変な感じね」


マリーが微笑む。


「昨日まで、あなたとは“心の距離”が遠かったのに……今日はこんなに近くて」


優は荷物を持ち直し、マリーの手を握った。


「これからずっと、こうしてればいい」


「……ええ。離れないわ」


 


パリ=シャルル・ド・ゴール空港。

出発ゲートでの検査が終わると、マリーは少し緊張したように優の袖を引いた。


「優。日本に着いたら……その……」


「ん?」


「わたし、本当に……あなたと暮らすのよね?」


優は思わず吹き出し、マリーの髪を撫でた。


「当たり前だろ。覚悟してくれよ?」


「覚悟……?」


「俺と住むんだから。甘やかすし、ずっとそばにいるし、逃げられない」


「……そんなの、望むところよ」


マリーは目を細め、胸の前で青いペンダントを握った。


 

飛行機の扉が開いた瞬間、大阪の湿った春の空気がふたりを包んだ。


「……あぁ、この空気。懐かしいな」


「ふふ、わたしには初めてのはずなのに……“懐かしい”って思えるの、不思議ね」


大阪弁のアナウンス。

コテコテのたこ焼き屋の看板。


「優……あれ!」


マリーが指差す先には、湯気を上げるたこ焼きの屋台。


「あはは、食べたいか?」


「……食べたいっ」


たこ焼きを口に入れるマリーの顔は、涙ぐむほど幸せそうだった。

そして、優を見上げて小さく笑った。


「……ねぇ優。なんででしょう……ここにいると、あなたのことが“最初から全部覚えていた”みたいに感じるの」


優は肩を寄せた。


「マリーが俺の“記憶の場所”を全部辿ってくれたからだよ」


「……そっか。じゃあ……ここは、ふたりの“帰ってくる場所”なのね」


ふたりは小さく指を絡めて歩き出した。


 

梅田から電車で15分。

優が事前に借りておいた、小さな1LDK。


扉を開けた途端、マリーはゆっくりと部屋を見渡した。

白いカーテン、木目の床、キッチンには二人分のマグカップ。


「……ここが、これからの“家”なのね」


「そうだよ。ようこそ、大阪の我が家へ」


マリーはカバンを置き、靴を脱ぎ、

気づくと――優の背中にそっと抱きついていた。


「優……」


「どうした?」


「嬉しいのに……涙が止まらない……」


優はその手を胸の前で包み込み、

マリーの額にキスを落とした。


「泣いていいよ。俺も嬉しい」


「だめ……嬉しすぎて壊れそう」


「俺が支える。壊れてもいい」


「……ほんとに?」


「ほんとに」


マリーは小さく笑って、優の胸に顔を埋めた。



夜。

大阪の春の風が窓を揺らし、部屋に柔らかな空気を運んでくる。


二人で買ってきた食材で作った夕食──

たこ焼き風オムレツとサラダ。


「ねぇ優……」


「ん?」


「こうして隣で食べるの、ずっと夢だったの」


「これから毎日だぞ」


「……毎日……」


マリーは笑う。


「幸せになりすぎて……明日わたし、溶けてしまうかもしれないわ」


「溶けたら、また固めてやるよ」


「もう……優ったら……」


 


片付けを終えたあと、

マリーはソファに座り、優の肩に寄りかかった。


「ねぇ優……ひとつだけ聞いてもいい?」


「なんでも」


「わたし、本当に……あなたとこうやって日常を過ごしていいの?」


優は即答した。


「いいに決まってる。マリーと暮らしたくて帰ってきたんだ」


マリーの目に涙が浮かぶ。

でも、もう悲しい涙じゃなかった。


「……じゃあ、お願い。

 これから毎朝……起きたら名前を呼んでほしいの。

 “マリー、おはよう”って。

 そうしたら……わたし、この幸せが現実だって信じられるから」


優はそっと手を握った。


「わかった。約束する」


「ありがとう、優……」


マリーは優の肩にもたれ、目を閉じた。

その表情は、三年間探し続けた“帰る場所”をようやく見つけた子どものように穏やかだった。


 


夜更け。

優が照明を落とすと、部屋は月明かりに包まれた。


隣の布団に横になったマリーが、

静かに優の指を絡めてくる。


「優……」


「眠れないの?」


「少しだけ……。ねぇ……言ってほしいの。最後に」


優はマリーの額に唇を寄せ、囁いた。


「もう二度と離れない。

 マリーのこと、絶対に忘れない」


マリーの目から、静かに涙がこぼれた。


「……その言葉を聞くために……生きてきたのかもしれない……」


優はマリーをそっと抱き寄せた。


「おやすみ、マリー」


「……おやすみなさい、優。

 あなたと眠る夜が……ずっと続きますように」


マリーは優の胸の中で、初めて安心して眠りについた。

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忘れたふりの隣で ~マリーがいた季節~  サファイロス @ICHISHIN28

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