第8話 さよならの香り

 午前の光が、空港のガラス壁を透かして床に反射していた。

 搭乗アナウンスが穏やかに響き、人々の足音と混じり合う。

 出発ゲートの向こうでは、春の雨がまだ細く降り続いている。


 マリーは青いペンダントを外し、両手で包んだ。

 その仕草は、祈るように静かだった。

 ペンダントを俺の手のひらにそっと置く。


「――これは、あなたのものです」

「どうして……」

「約束だから。いつか思い出すその日まで、預かっていてください」


 言葉が出なかった。

 胸の奥で何かが軋み、痛みとも懐かしさともつかない感情が押し寄せてくる。

 マリーの瞳は澄んでいて、もう迷いの影はなかった。


 彼女は一歩、近づく。

 距離が、ゆっくりと消えていく。


 ――マリーの睫毛が、かすかに震えた。


 唇が触れたのは、一秒にも満たなかった。

 けれど、その短い温度が、

 どんな言葉よりも深く、

 “さよなら”を告げていた。


 そして――

 彼女はもう一度、ゆっくりと顔を上げた。

 頬を伝う雨粒が照明に光り、

 まるで涙のように輝いていた。


「……これが、私の最後のわがまま」


 そう言って、マリーは両手で俺の頬を包んだ。

 今度は、ためらいもなく唇を重ねた。


 最初のキスより、少し長く。

 でも、やはり儚いほど優しい。


 その瞬間、

 空港のざわめきがすべて遠くへ消えていった。


 髪に触れた雨粒が、指先を伝って落ちる。

 互いの息が、同じ温度で溶け合う。


 痛みでも、涙でもない――ただ静かな祈り。


 マリーが唇を離したとき、

 彼女の瞳はもう濡れていなかった。


 声は震えた。

 笑みの形にならず、唇の端でほどけてしまう。

 それでも、その笑みはどんな約束よりも強かった。


「ありがとう、優」


 その声とともに、

 アールグレイの香りがふわりと漂った。


 ――その香りが、記憶の奥をゆっくりと溶かしていく。

 まぶたの裏に浮かぶ、過去の光景。

 事故の夜、雨に濡れた道路。

 倒れた自分の手を握りしめ、泣きながら呼ぶ女性の声。


『お願い、優……目を開けて……!』


 それは、マリーの声だった。


 世界が静かに反転していく。

 “記憶を失っていたのは、マリーではなく自分だった”――

 その事実が、ようやく胸の奥でひとつになる。


 遠ざかる背中。

 マリーの白いコートの裾が風に揺れ、

 春の光の中へ消えていった。


 俺はその場に立ち尽くし、

 手の中のペンダントを強く握った。

 アールグレイの香りがまだ、空気の中に残っていた。


 “さよなら”の言葉の代わりに、

 その香りだけが、彼女の記憶を永遠

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