第5話 姉の帰省
午後の光が西の空へ傾きはじめたころ、玄関のチャイムが鳴った。
俺が扉を開けると、そこに立っていたのは久しぶりの顔――姉だった。
肩まで伸ばした髪をひとつに結び、少しだけ都会の香りをまとっている。
「ただいま。……元気してた?」
「まあ、なんとか」
「“なんとか”って言い方、信じていいのかな?」
笑いながら靴を脱ぐ姉。
その笑顔は相変わらず柔らかいけれど、どこか観察するような目をしていた。
マリーがキッチンから顔を出した。
エプロンの紐を結んだまま、少し驚いた表情を浮かべる。
「……こんにちは」
姉がぴたりと動きを止めた。
一瞬だけ――時が止まったように見えた。
「え……もしかして、マリーさん?」
姉の声が、わずかに震えた。
マリーは静かに微笑み、頷く。
「はい。覚えていてくださったんですね」
「そりゃあ、忘れられるわけないよ。高校の文化祭で同じ展示だったじゃない」
「……そうでしたね」
その会話は自然に聞こえた。
けれど、なぜか呼吸の間がほんの少しだけ長かった。
まるで、用意された“脚本”を読み上げるように。
「え、二人って高校のとき知り合いだったの?」
俺の問いに、姉が小さく笑った。
「うん、後輩だよ。可愛い子だったの、当時から」
「そんな……大げさです」
マリーは控えめに笑い、目を伏せた。
けれど、その目の奥には、ほんの一瞬、懐かしさが滲んだ。
夜。
夕食の席には、柔らかな静けさがあった。
マリーが作ったグラタンの匂いが漂い、アールグレイのポットが湯気を立てている。
姉はスプーンを口に運びながら、何気ない調子で言った。
「ねえ、マリー。今は留学中なんだっけ?」
「はい。短期ですが……」
「そうなんだ。日本の料理、もう慣れた?」
「ええ、たぶん……手が覚えていましたから」
その答えに、姉が微かに目を細める。
だが、すぐに笑顔に戻り、優に視線を向けた。
「優、いい子にしてる?」
「子ども扱いしないでくれ」
「ふふ、やっぱり。そうやって言うと思った」
何でもない会話のように聞こえる。
けれど、言葉の端々に妙な緊張があった。
俺にはまだ、それが何に対するものなのか分からなかった。
食後、姉とマリーが食器を片づけている。
俺は洗面所で手を洗い、リビングのドアの隙間から二人の会話が漏れてくるのを耳にした。
「……久しぶりだね。こうして話すの」
「ええ。……でも、優の前では、あのことは言わないでください」
「わかってる。わたしたちの“約束”だから」
マリーが静かに息を吐く。
「Le mensonge, c’est parfois une forme d’amour.
――嘘は、ときどき愛のかたちでもあるの」
マリーの声は、まるで自分自身に言い聞かせるように震えていた。
「……あの頃と変わらないね。その言い方」
「だって、本当にそうなんです。あの人――優を守るためなら、何度でも嘘をつけます」
ガラスのコップが軽く触れ合う音がした。
沈黙。
そして、姉の声が少しだけ震えた。
「……マリー、あなたまで壊れないでね。優を守りたい気持ちは分かるけど、全部背負ったら、あなたが消えてしまう」
「大丈夫です。わたしは平気。――でも、あの人が壊れたら、わたしはきっと……」
声が途切れる。
俺は息を止めたまま、動けなかった。
なぜ姉が“優を守る”なんて言葉を口にしたのか。
マリーの言う“あの人”とは、いったい誰なのか。
答えは霧のように遠く、掴めそうで掴めなかった。
その夜、姉は早めに寝室へ入った。
マリーは紅茶を淹れながら、静かに言った。
「優……姉さん、優しい人ですね」
「そうだね。昔から、困ってる人を放っておけないタイプ」
「……似てます。あなたと」
彼女は微笑みながら、カップを両手で包み込む。
アールグレイの香りが、また部屋いっぱいに広がった。
その香りが、なぜか切なくて、俺は言葉を失った。
マリーの瞳が、静かに揺れていた。
「ねえ、優」
「うん?」
「もし……“嘘”にも、やさしい嘘があるなら、信じてくれますか?」
「……たぶん」
「なら、よかった」
彼女は微笑みながら、カップの中を見つめた。
紅茶の表面に反射した光の粒が、まるで記憶の破片のようにきらめいていた。
――俺はまだ知らなかった。
この夜、姉とマリーの間に交わされた“嘘”が、
やがてすべての記憶を結びなおす鍵になることを。
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