第3話 灰色の雨と桜の記憶

――それから、いくつかの週末が過ぎた。


蓮は時折、アトリエを訪れた。

理由はいつも「絵の相談に乗る」という名目だったが、

本当はただ、梨乃のそばにいたかった。


彼女は変わらず穏やかで、どこか夢の中を生きているような空気をまとっていた。

会話はぎこちなくも平和だった。

まるで、初めて恋をした高校生のように、互いに探りながら言葉を交わす。


「朝倉さんって、いつも静かですね」

「そうですか?」

「ええ。なんだか、見ていると落ち着くんです」


その一言だけで、胸がざわついた。

彼女の中にはもう“恋人としての僕”はいない。

それでも、たった今のこの言葉が嬉しかった。

今の彼女の世界で、ほんの少しでも自分が居場所を得られた気がした。


◇ ◇ ◇


四月も半ばを過ぎた頃、

アトリエの窓辺には、桜の花びらが風に乗って舞い込んでいた。

外では子どもたちの笑い声。

春が街を満たしている。


その日、蓮がアトリエを訪れると、梨乃は外出していた。

結香が一人、キッチンで紅茶を淹れている。


「……あの子、少し変わったわ。」


カップを置く音が小さく響く。

「あなたと話すようになってから、笑う時間が増えたの。

 でもね――それが、いいことなのか、まだ分からないの。」


「どういう意味ですか?」


「彼女の中に“空白”がある。そこに、あなたの存在がもう一度入り込めば、

 また苦しむことになるかもしれないのよ。」


蓮は俯いた。

確かに、結香の言葉は正しかった。

それでも、もう後戻りはできなかった。


「……彼女が笑ってくれるなら、それでいいんです。」


結香は少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「あなたって、本当に愚直ね。

 でも、そういうところが、きっとあの子の記憶に残っているんでしょうね。」


◇ ◇ ◇


その夕方、梨乃が帰ってきた。

春の風をまとい、髪が少し乱れている。

手にはスケッチブックが抱えられていた。


「朝倉さん、ちょうどよかった。見てほしいものがあるんです」


彼女はページを開く。

そこには、一面に桜の花が描かれていた。

だが、よく見ると――

枝の影に、ぼんやりと“誰かの背中”が描かれている。


「この人、誰か分からないんです。でも……なぜか、描かずにいられなくて」


蓮は息を呑む。

それは、かつて二人で見た風景だった。

夜桜の下、彼が彼女の背に傘を差しかけた、あの瞬間。


(思い出しているのか? それとも……)


梨乃が静かに呟く。

「この背中を見ると、胸が温かくなるんです。

 寂しいけど、安心するような……。ねえ、私、誰かを待っていたのかもしれません。」


蓮は答えられなかった。

心が震え、視界が滲んだ。

彼女が何かを取り戻そうとしている。

それが、自分であってほしいと願う一方で――

その願いが叶えば、彼女はまた傷つく気もした。


「……その人、きっと優しい人だったんでしょうね。」


「ええ、きっと。」


梨乃はそう言って微笑んだ。

その笑顔は、どこか懐かしく、痛いほど美しかった。


◇ ◇ ◇


夜。

帰り道、蓮は桜並木の下を歩いていた。

街灯の下で、花びらがひらひらと舞い落ちる。

冷たい風が頬を撫で、心の奥が静かに疼く。


ポケットの中には、彼女の描いたスケッチのコピーがある。

白い花びらの中に立つ、あの“背中”。

――もう一度、あの夜に戻れたら。

そんな思いが胸をかすめる。


「梨乃……」


彼は空を見上げ、小さく呟く。

月が雲間に覗き、淡い光を落とした。


たとえ記憶を失っても、

彼女の心のどこかに、自分がいた証が残っているなら。

それでいい。


蓮はゆっくりと歩き出した。

その背に、再び春の雨が落ち始める。

――灰色の雨。


あの日と同じ冷たさの中で、

彼はもう一度、恋の終わりを抱きしめた。

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