第2話 記憶の花が咲くアトリエで

――数日後、空は晴れていた。


春の風がやわらかく頬を撫で、木漏れ日が大学の中庭に揺れている。

だが、朝倉蓮の心は晴れなかった。

あの日、図書館で見た梨乃の無表情な瞳が、何度も夢に出てくる。


(……あれが現実なんだ)


彼は手帳を開き、あの貸出カードを見つめる。

“東雲結香”という名前が、薄いインクで書かれていた。

心臓の鼓動がひとつ強く跳ねる。


昔、一度だけ会ったことがある――梨乃の事故のあと、病院で。

冷たい印象の女性だったが、その瞳には確かに彼女を想う優しさがあった。


(彼女なら、今の梨乃を知っているはずだ)


そう思い、蓮は連絡を取った。

メールの返信は、たった一行。


「明日の午後三時、駅前のカフェで。」


――淡々と、それだけ。


◇ ◇ ◇


午後三時、カフェの扉を開けると、

窓際の席で東雲結香がコーヒーを前に座っていた。


長い黒髪を一つにまとめ、シンプルなシャツとカーディガン。

以前よりも少し痩せたように見える。

けれど、その横顔の輪郭は記憶のままだ。


「……ご無沙汰しています、朝倉さん。」


彼女の声は、相変わらず穏やかで冷静だった。

蓮は少し頭を下げて、向かいの席に座る。


「水瀬さんのことで、お話がしたくて。」


結香はしばらく黙ってから、静かにカップを持ち上げた。

湯気がゆらりと揺れ、窓の外に光を散らす。


「会ったのね、梨乃に。」


「はい。大学の図書館で……。でも、僕のこと、覚えていませんでした。」


「そうでしょうね。」


結香の声には、悲しみでも驚きでもなく、ただ現実を受け入れたような静けさがあった。


「事故のあと、彼女は多くを忘れたの。

 名前や好きなもの、日常の記憶は残っていたけれど――

 “誰を愛していたか”という部分だけ、まるで切り取られたみたいに。」


蓮は唇を噛んだ。

まさに自分との思い出だけが、消えてしまったということなのか。


「それでも、彼女は穏やかに過ごしています。

 今は、私と一緒に小さなアトリエで暮らしているの。」


「……アトリエ?」


「ええ。リハビリを兼ねて絵を描いているの。

 何かを表現していないと、心が落ち着かないみたいで。」


そう言って、結香は微笑む。

その微笑みの奥に、どこか“守る者”の強さがあった。


「彼女の中には、もう“朝倉蓮”という存在はない。

 でもね、たまに言うの。“誰かが、私を見ていた気がする”って。」


蓮の胸が強く締め付けられた。

それは、まるで過去の記憶がまだ心の奥で灯っている証のようで。


「……もう一度、会わせてもらえませんか?」


思わず口をついて出た言葉。

結香はその瞳で蓮を見据えた。

まるで、心の奥を見透かすように。


「あなたが彼女に会って、何を望むの?」


「……思い出してほしいとか、そういうことじゃありません。

 ただ、今の彼女を知りたいんです。どんなふうに笑うのか、どんなふうに生きているのか。」


沈黙。

やがて、結香は小さく息を吐いた。


「本当に、それだけでいいの?」


その問いには、冷たさと優しさが混じっていた。

蓮は少し迷い、しかしうなずいた。


「ええ。それだけで。」


結香はカップを置き、立ち上がる。

「……明日、午前十一時。アトリエに来なさい。場所は後で送るわ。」


「ありがとうございます。」


そう言った蓮に、結香は小さく微笑んだ。

だがその瞳には、どこか痛みが宿っていた。


◇ ◇ ◇


翌日。


指定された住所は、大学から少し離れた住宅街の一角にある古い洋館だった。

白い壁に蔦が絡み、庭には花が咲き始めている。

玄関前には、梨乃の傘と靴が整然と並んでいた。


結香が扉を開ける。

「中へどうぞ。……彼女、二階の部屋で絵を描いているわ。」


蓮は一歩踏み入れた。

木の床がきしみ、絵具の匂いがかすかに漂う。

階段を上がるたび、鼓動が速くなっていく。


二階の奥の部屋。

扉の向こうから、柔らかな筆の音が聞こえた。

蓮は深呼吸をして、ゆっくりノックした。


「……どうぞ」


その声。

変わっていない。

懐かしくて、泣き出しそうになる。


扉を開けると、窓辺の光の中に梨乃がいた。

白いブラウスに、淡いブルーのスカート。

筆を持つ指先が、少しだけ絵具で汚れている。


「こんにちは。初めまして、朝倉蓮です。」


「……こんにちは。」


彼女は穏やかに微笑み、蓮を見た。

その笑顔に“恋人だった頃の面影”が重なる。

だが、やはり――思い出す様子はない。


「絵を描いているんですね。」


「ええ。最近は、花ばかりです。

 どんな花か分からないのに、いつも同じ形を描いてしまうんです。

 まるで、誰かが記憶の奥から“それ”を教えてくれるみたいで。」


蓮はキャンバスを見た。

淡い色彩の中に、白い花弁が描かれていた。

それは、二人が最後に見た“桜”の花に酷似していた。


(……覚えてる。どこかで、きっと)


その瞬間、梨乃が小さくつぶやいた。


「不思議ですね。あなたの声、どこかで聞いたことがある気がします。」


蓮は笑おうとしたが、喉の奥が詰まった。

彼女は“今の彼女”として微笑んでいる。

それでも、その言葉だけで、救われる気がした。


窓の外では、春の光が揺れている。

再会の喜びと、取り戻せない過去の痛みが、同時に胸を刺した。


――たとえ彼女が記憶を失っても、僕はまた惹かれてしまう。


結香が階下から呼ぶ声が聞こえた。

「梨乃、そろそろ休憩にしなさい。」


梨乃が微笑んで頷き、筆を置く。

その横顔を見つめながら、蓮は心の中で静かに誓った。


――もう一度、彼女に恋をしよう。

記憶のない世界でも、もう一度、同じ心を探すために。

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