『第四話・5 : 境界頁の森』 削除された未来と、白い従者』

次の瞬間、

森の奥から―― “音より先に、意味が歩いてきた”。


空気がその意味へ追いつく前に、圧だけが胸を押し込み、視界の端では影がゆっくりと立ち上がる。

それはまだ“形”ではなく、形になる予定の影だけが、世界より先に存在しているようだった。


セラフィーが、かすかに息を呑む。


「……召喚じゃないわ。

 世界の向こう……“読み手の席”にいる存在が、

 物語をめくらずに――こちらへ触れてきている……」


その声は静かだったが、

周囲の温度だけがひどく冷え込んだ。


空気が薄く張りつめ、誰もが言葉を失う。

その緊張を破るように、ぶっくんの頁が悲鳴みたいにぐしゃりと縮んだ。


「あ、あれ生き物ちゃう……!!

 存在だけ先に歩いて、形があとから追いかけてくるタイプの怪異や!!

 図鑑に載せた瞬間、図鑑ごと消えるやつやでぇぇ!!」


ぶっくんの絶叫が森に震えを残したまま――

その震えに、何か“別の震動”が重なった。


ワン太だけが、異様なほど静かだった。

まるでこの世界だけ音を閉ざされているみたいに、一切動かない。


縫い目だけが、まるで世界軸の震えを記録する計器のように、

正確すぎる微動を刻んでいた。


しかもその震えは“外側”に反応しているのではなく――

ワン太の内側で、誰かが小さく叩いているように見えた。


その異様さに、リリアたちの視線が思わず同じ方向へ引き寄せられる。


次の瞬間――

朝靄が、紙を裂くようにぱきりと割れた。


音はない。

だが裂け目の奥から染み出す“意思”だけが、

リリアの骨の内側へ、ひやりと触れてくる。

空気がたわむ。

世界の皮膜が、見えない指で内側から押し広げられるみたいに震えた。


「なぁなぁ! この揺れ、地震ちゃうよな!?

 いやなフラグ立っとるやんかぁぁ!!」


ぶっくんが墨を散らして悲鳴を上げた直後――

世界そのものが、ようやく悲鳴を理解したかのように軋み始めた。


砦の最奥に据えられた紅晶が――

“割れた”のではなく、

物語から一行まるごと削除されたように消えた。


赤黒い奔流が吹き上がる。

光ではない。

世界の裏側が漏れ出す、音のない悲鳴。

大地が揺れ……しかし、その揺れすら遅れて追いついてくる。


砦を縛っていた鎖が断ち切られた瞬間、

“形になる前の巨影”が、

まず 意味だけ を地平へ落とした。


そして世界は、遅れてその意味を描写し始める。

森の影は剥がれ落ち、砦の輪郭は砂のように崩れ――圧だけが、生き物めいて歩を進めてくる。


胸が焼ける負荷にリリアは膝を折りかけた。

世界が崩れていくのに、自分の心臓だけはやけに規則正しく打っている。

その鼓動が、いつの間にか“身体の外側”で鳴っているように感じた――

その違和感こそが、いちばん怖かった。


禍々しい頭部に――

ただ、ひとつの眼。

彗星のように燃えるその単眼は、視線ではなく、“訂正”として世界に触れてきた。


その単眼が世界を塗り替える光を放った瞬間、

リリアの背筋を冷たい疑念が走った。


(……おかしい。世界の“外側の壁”が、誰かに薄く削られてる?

 本来なら絶対に干渉できないはずの“向こう側”から、何かが入り込んでる……)


触れられただけで、草は輪郭を失い、星々は誤字訂正のように消えていく――


そして――

世界より先に、名前だけが落ちてくる。


《世界殲滅神──デモリオン》


リリアは剣を構えたが、腕の震えを抑えきれなかった。


(マジかよ……!

ゲームでも“時間制限付き鬼畜イベントボス”の中で最凶だったやつだぞ!?

三分動かしただけでサーバー全域が落ちて、

運営がイベント開始五分で中止を宣言した“伝説の調整ミス”……!

あの日だけでユーザー登録者数が十万人近く減って、株価まで下がった事件だぞ……!

運営が謝罪文を三回も出したのに炎上が止まらなかった、あの地獄……!

このイベント企画したやつ、会社クビになったって噂まであった怪物だぞ……!)


(――レベル999の俺ですら勝てなかった。

ボロボロで、片腕まで失って……それでも“封印”するので精一杯だった。)


(そんなデモリオンが――

ログアウトもポーズもない“リアル”に降臨?

おい待て、存在そのものが事故みたいな化け物だぞ……!?

出てきていい存在じゃねぇだろ!!)


(よりによって“一番出ちゃいけないやつ”が……

なんでよりにもよって現実世界にスポーンすんだよ……!

俺たち、生身なんだぞ……!!

ほんとに降臨すんなよ、バランスブレイカー神!!)


次の瞬間、世界が悲鳴を上げたように――

デモリオンの咆哮が夜空を裂いた。


大地が腹の底から震え、月光すら霞むほどの白炎が天を覆う。

灼熱の吐息が稲妻となって森を薙ぎ払い、

木々は触れられた端から“焼ける音すらなく”白灰へと変わっていった。


その咆哮は、もはや“音”ではなかった。

空間そのものを削り落とす刃――

鼓膜より先に、世界の構造が悲鳴を上げる。

遅れて押し寄せた衝撃が頭蓋を軋ませる錯覚を生み、リリアの膝がかくりと沈んだ。


そして、世界が息を呑む。

“すべての音が死んだ”。


静寂が降りたのではない。

音という概念そのものが、世界から剥奪された。


世界そのものが“無音という牢獄”に閉じ込められた、その刹那――

ありえないはずの現象が、亀裂のように割り込んでくる。

沈黙の底から、ただ一つだけ “場違いな足音” が戻ってきた。


白灰に塗り潰された森へ、

“ひとり分の足音だけ” が、規則正しく落ちてくる。


カツ、カツ、と。

デモリオンの咆哮すら粛清した沈黙の中で、

その軽い響きだけが、異様なほど鮮やかに世界へ浮かび上がった。

まるで、沈黙という幕の裏から、足音そのものが世界を呼び戻している かのように。


その音に導かれるように、

崩れ落ちた砦の残影の奥から――

ひとつの人影が、ゆっくりと浮かび上がった。


赤黒い奔流を背に浴び、

デモリオンの咆哮すら“歓迎の合図”と受け取るかのように――

一歩、また一歩。


灰の帳を裂く残光が、その身体の輪郭を淡く縁取り、背では燃える紅晶のきらめきが揺れていた。

片手にぶら下げた細身の杖は、まるで舞台の幕開けを告げる指揮棒のように、静かに傾いている。


焼け落ちた世界のただ中で――

その人物だけが、崩壊そのものを舞台装置として扱うかのような、

不気味な落ち着きを纏っていた。


リリアは、その歩き方を知っていた。

一度忘れたはずの記憶が、心臓の裏側で――静かに軋む。

その姿を真正面から捉えた瞬間、

胸の奥で、忘れたはずの記憶が一気に逆流する。

弟子の成長を願ったあの日々が、全部“別人の人生”みたいに遠のいていった。


彼の未来を信じていた“師の自分”だけが、世界からひそやかに消えていく気がした。


かつて隣で魔法書を覗き込み、未来を語り、師である自分の背を必死に追いかけていた男。


ラムタフだった。


その瞳は、かつての色を完全に失い、

紅晶の破片のように――

まるで“この世界を背景としてしか見ていない”光が宿っていた。

そして何より、リリア――いや颯太の胸を刺したのは、

ラムタフの“髪の色”だった。


黒かったはずの髪が、あり得ないほど均一な“白”へ塗り替えられている。

老いでもなく、魔力焼損でもない。

そこには、生きた時間が残すはずの“揺らぎ”が一粒たりともなかった。


まるで誰かが――

「元の物語をまるごと消去し、新しい役目だけを上書きした」

と告げるために選んだかのような、異様に整った白。


そのただ一色だけで、

かつて弟子だった少年が、この世界から静かに“削除”されたのだと悟らされる。


その白は、“成長した未来”ではなく、

別の物語へ従属させられた者の証そのものだった。


ひどく静かな痛みが、胸の奥をきしりと押し広げる。

リリア――いや颯太は、自分の内側で

物語の芯のような細い何かが、そっと折れていく気配 だけを聞いた。


(俺が育てた“未来”が……

 俺の知らない物語に行ってしまった……)


その痛みを見透かしたかのように、

ラムタフの影だけが――ゆっくりと、こちらへ傾いた。


その傾きは、再会ではなく――宣告だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る