『第四話・4 : 境界頁の森』
数刻ののち、砕け散った紅晶兵の破片が足元を埋め尽くしていた。
朝靄の底へ――遅れて“沈黙”だけが沈み込んだ。
倒れゆく音より早く、空気の方が先に、深みに落ちる。
リリアは、荒く乱れた息をひとつ吐いた。
胸の奥で暴れ続けていた熱はまだ鎮まらず、
鈍痛だけがじんわりと光の尾を引くように、心臓の裏へ貼りついている。
汗で滑る柄を握りしめる指はわずかに震え、
節の奥に残った痺れが――さっきまでの死闘を、確かな刻印として刻んでいた。
少し後ろで、セラフィーが光刃を静かに収めた。
呼吸にはまだ微細な揺らぎが残り、先ほどの連続裁断の余熱が、指先にかすかな震えとなって滲んでいる。
目の前の敵はすべて倒れた――だが、その代償は想像していたより深かった。
息を整えるたび、胸の奥に沈んだ“戦いの残り火”が、鈍い熱を含んでゆっくりと燻り続ける。
それでも――
この静けさこそが、深い闇へ踏み込むための“最初の門”だと、二人は本能で悟っていた。
わずかに風が止み、森全体が呼吸をひとつ呑み込む。
「……表層はこれでおしまい。問題は、この先よ」
セラフィーの声には、針の先のような緊張がひっそりと忍び込んでいた。
その細い鋭さが、むしろ“この先が本番である”という事実を静かに告げている。
リリアは湿った掌で、魔剣レーバティン・ゼロの柄をゆっくり握り直した。
指先には確かな力が戻っているのに、呼吸はまだ浅い。
胸の奥に沈んだ残り火が、脈動に合わせてかすかに疼き続けていた。
――その瞬間。
森の奥で、“ひとつだけ違う静けさ”が目を覚ました。
気配はない。
音もない。
ただ世界の縫い目が、透明な針でそっとすくい上げられたように、静かに、しかし確実に揺らぐ。
リリアの横で、ぶっくんが ばちんっ! と紙が悲鳴を上げるような“裂音”を立てて跳ねた。
「ひっ……ひぃぃっ!?
あ、あかん……!! 今の“静けさ”、生き物のもんちゃう……!!
世界そのものがページめくってきよる音や……!!」
頁は風もないのに勝手にめくれ、
四方八方へ“逃げようとして”反り返る。
紙の震えはもはや震度ではなく、痙攣。
セラフィーが眉を寄せた。
「……本のクセに、ここまで怯えるなんて異常ね」
「異常も異常や!!
ワイの紙質、今ので三割寿命削れたわ!!
こんなん普通の魔獣やない……!!
奥の方から……“書き手”みたいな存在が、こっちを読み返してきよる……!!」
リリアが息を整えつつ横目を向ける。
「書き手……? いったい何が来るってんだよ」
ぶっくんは震えた頁の隙間から、森の奥の方向を凝視した。
「知らん……でもな……
千年呪いの本やっとって、
“気配より先に存在の意味だけ押し寄せてくる”なんて、初めてや……!!
これは――
理が逆向きに流れはじめとる……!!」
ワン太が――音もなく、ゆっくりとリリアの肩へ顔を向けた。
胸の縫い目が、
ぴく……と、“魂の皮膜”だけ震わせるように微かに跳ねる。
その動きは、現実の時間だけが置き去りにされたみたいに遅れ、
まるで“別の層の重力”が先に引いた跡だけが残ったような、説明のつかない沈み方だった。
その瞬間、森の色調が一段だけ沈み、
光の粒子がわずかに遅れて落ちてくるような錯覚がリリアの視界をかすめた。
影と影が噛み合わず、輪郭だけが少し遅れてついてくる。
遠くで鳥が羽ばたいた――はずなのに、音は“あとから”追いかけてきた。
その揺らぎが空気へ伝わった瞬間、
森の奥で、まだ名も持たない“誰かの視線”が、物語の裏側からそっと触れた気がした。
触れたというより、こちらの“存在の形”を確かめるように、世界の皮膜を指でなぞられた――そんな微かな圧だけが残る。
気配も音もないのに、
“読まれている” という恐怖だけが、胸の奥で静かに結晶する。
――その一度きりの反応で、十分だった。
ぶっくんの絶叫なんかよりずっと深く、リリアは胸の奥で悟る。
“何かが来る”。
世界の軸が、ほんの一瞬だけ“逆方向へ滑った”。
足元の大地が“本来の場所から半歩ずれた”ように、重さの感覚だけが宙に浮いた。
朝の光が、紙面の罫線を踏み外したみたいに、わずかに傾いていた。
風が葉を揺らす音だけが、瞬き一つ分遅れて届く。
そこには、生き物にあるはずの“脈の気配”が、一粒もなかった。
ただ“形だけの影”が、空気の輪郭をひそやかに書き換えていた。
――地獄が、静かに目をひらいた。
朝靄の向こうで、
“何かの指先”だけが――世界を、ひとつめくった。
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