『第四話 • 1 : 紅晶の砦、目醒める朝──戦端の裂け目』
朝の光が、ゆっくりと紅晶の砦の輪郭をなぞりはじめた。
石壁に埋まった紅晶が、夜よりも鮮烈に脈動する。
まるで砦そのものが眠りから醒め、胸でゆっくりと呼吸を始めたかのように──
赤い光が、規則正しく、じわりと明滅した。
リリアは無意識に息を呑む。
その赤の揺れは、“ただの朝”という概念そのものを拒絶していた。
セラフィーが、息の温度をすっと落とした声で囁く。
「……これは鼓動じゃない。
“触れられた”のよ。砦の中の“なにか”に。」
風がひゅう、と乾いた草を撫でていく。
静寂は保たれている。
……なのに。
空気の層そのものが、音のない“前触れ”で満たされていた。
――世界そのものが、じっとこちらを覗き込んでいる。
ブッくんでさえ、表紙の端をぞわりと逆立てる。
「……リリアはん……紙の繊維ぜんぶ逆立っとる……!
ワイ、本棚戻りたい……貸本コーナーの安全地帯に……」
その瞬間――。
地の底で“何か”が、ひとつ脈を打った。
次の拍動は、ずしん……と大地ごと這い上がり、足裏の骨にまで鈍く触れた。
ゴ…… ゴ……
三人の視線が、吸い寄せられるように砦へ向く。
セラフィーが息を鋭く吐き、目を細めた。
その声は、朝の冷気よりも冷たかった。
「……構えて。いま、胸の奥を“撫でられた”。こっちを見てる……!」
次の瞬間、砦全体が低く呻き始める。
門の継ぎ目が紅晶の赤でぬらりと濡れ、その光が脈を刻む。
……ギ……ギギギ……ッ……
石と鉄と紅晶が同時に悲鳴を上げるような音を立てた。
――そして、音がぴたりと止んだ。
静寂。
朝の光でさえ震えるような、不吉な空白。
そのわずかな沈黙を裂くように――
ゴォォォォォッッ!!!
紅晶の門が、吐き出すように開いた。
砦の闇を裂き、
血色の甲冑をまとった兵たちが、押し出されるように雪崩れ出た。
赤く灼ける瞳。
紅晶の欠片を無数に埋め込まれた剣と槍。
命ではなく“装置”として動くようなぎこちなさ――
なのに、その“圧倒的な数”だけは、朝の光すら黙らせた。
夜明けの世界で、
彼らだけがまだ“夜”の側に立ち続けている。
「うわあああ!! 雑魚戦ラッシュ来たぁぁ!!」
ブッくんが表紙をバタバタ叩きながら絶叫する。
「借金取りより数おるで!? バーゲン初日の開店ダッシュやんけぇぇ!!」
セラフィーは光刃を抜き放ち、静かに構える。
その佇まいだけで空気が一段引き締まる。
「……気を抜かないで。
押し込まれたら、飲まれるだけよ。」
リリアは剣を掲げる。
胸の奥の高鳴りを、怒りとも恐怖とも違う“前へ進む力”へ押し込めて。
「行くよ……!
ここを突破して――ラムタフのところまで!」
(……怖くねぇわけじゃない。
でも、このままじゃ……あの時から前に進めねぇ。)
朝の冷気が震え、
リリアの叫びが戦場の幕を切り裂く。
「さぁ来い!!」
紅晶の砦前の戦いが、
ついに始まった――。
紅晶兵たちが、地を揺らす咆哮と共に雪崩れ出る。
赤光に照らされた鎧は血のように赤黒く、瞳は獣じみた光を放っている。
セラフィーがぴたりと地を蹴り、
月明かりの幕を裂くように前へ躍り出た。
「――散開して。削り落とせるうちに削ぐわ!」
その声は刃より冷たく、
閃いた光刃は最前列の槍を
まるで“朝露の糸”でも断つみたいに、一息で切り落とした。
「おおお……! 相変わらず手際ええなぁ……!」
ブッくんが墨をばら撒きながら震え上がる。
「で、でもワイは!? ワイの配置はどこや!?
殿か!? お荷物か!? 残飯処理か!?」
「残飯処理って何だよ!!
そもそもお前、戦闘入ったら“ダメージ受ける係”だろ!!
ちゃんと役目果たせよ!!」
リリアが叫び返しつつ、紅晶兵を薙ぎ払う。
刃から奔る火花のような魔力が、三体をまとめて吹き飛ばした。
セラフィーが横目でぼそりと言う。
「……威力、反則じゃない?
でもあなたの防御、紙よ。文字通り」
(そこなんだよぉぉ!!
俺の耐久ほんと豆腐! 殴られたら即・勇者リスポーンだろ!!)
愚痴が胸で爆鳴りした、その瞬間。
背後の空気がひゅ、と跳ねた。
紅晶兵が死角から槍を振り下ろす――!
「ぽふっ!!」
ワン太が胸元から跳び出した。
ぬいぐるみらしからぬ“獣の落下角度”で、
前足の一撃だけで紅晶の衝撃そのものを霧散させた。
(おおおお!?
何だよその完璧なタンク性能!!
素材欄に“世界観壊すレベルの硬度”って追記しとけ!!)
ブッくんがページをばっさばっさ振り乱し叫ぶ。
「ほ、ほなワイも行くで……!
“
ぐえぇ、と紅晶兵の一体が鎧ごと腹を抱えて蹲り、
夜の森に情けない呻き声が響く。
「……よし! 効いた!!
見たかリリアはん、これがワイの奥義や!!」
リリアとセラフィーが同時に振り返る。
「……茹で上がってる……」
「地獄のパスタかよ!!」
ふたりは同時に叫ぶ。
「地味すぎるわ!! てか何の系統の呪いなのそれ!!」
「えっ!? 今の、かっこよかったやろ……?」
ブッくんがガクーンと膝を折る。
セラフィーは淡々と敵を切り裂きながら言う。
「まあ、効けばいいわ。
“紅晶兵が腹痛で全滅”なんて歴史書に残ったら最悪だけど。」
その皮肉にでも反応したみたいに、陣列が一気に乱れた。
リリアはその一瞬の隙を逃がさず――大きく刃を振り抜く。
「――《紅蓮裂衝(ぐれんれっしょう)》!!」
刃が抜ける瞬間、空気がひゅ、と泣いた。
紅光をまとった大斬撃が、夜気を鮮血みたいに裂く。
空気そのものが震え、
砦の影が光の奔流に呑まれ、
兵たちは数珠つなぎに吹き飛んだ。
その一閃の余韻はまだ消えず、
砦の紅晶が“恐れたように”一拍だけ脈を逸らした。
赤光が、まるで生き物の呼吸みたいに震えながら後退る。
その瞬間、空気がきぃん……と張りつめ、
まるで世界が“一枚の薄氷”に変わったように静まり返った。
灰色の靄が木々に絡みつき、
葉の裏で残光がちらちらと息をし続けている。
森を押し潰すような静寂。
倒れた兵の呻き声だけが微かに残った。
リリアは肩で荒く息をしながら、
剣の柄を強く握り直した。
(――まだだ。
ここで引いたら、あいつと向き合えない。)
(……来るなら来い。
こっちは、もう腹を括った。
ラムタフ――決着は、必ずつける。)
……胸の奥で、あの日の声がまだ燻っていた。
それは後悔でも、怒りでもなく――
“前へ進め”と背中を押す、消えそこなった火だった。
リリアは息を整え、そっとその火を胸に引き寄せる。
そして、揺らがぬ声で心の中に告げた。
(逃げない。もう二度と)
リリアの足音だけが、壊れた朝を縫って進んでいく。
ラムタフへ続く道は、もう迷わなかった。
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