『第三話 • 1 : 紅晶の砦へ──朝靄の中の違和感』
次の日の早朝、リリア一行は街道を北へと進んでいた。
王都の喧騒は、薄い朝霧の向こうに遠ざかりつつある。
耳に残るのは、濡れた草を踏む音と、目を醒ましたばかりの鳥のさえずりだけだった。
東の空には淡い金色が広がり、低い雲の縁を静かに照らしている。
夜の名残を引きずった冷気が肌を刺し、森の空気はひどく澄んでいた。
ひゅう……と、森の奥で冷たい風がひとつ鳴る。
その音は、まるで誰かの“寝息”が朝靄に溶けたようだった。
セラフィーが外套を胸もとで握り直し、身震いする。
「……気温だけじゃないわね。この冷たさ……砦の方角から流れてきてる。」
リリアは歩みを止めず、淡い朝光の残る空を見上げた。
紅晶の砦が放つ気配が、朝靄の中に静かに、じわりと滲み始めていた。
そんな清冽な空気の中でも、リリアの脳内だけは……完全に早起き失敗のテンションだった。
(……もう帰って寝たい。)
(てか、なんでこんな早朝に出発しなきゃいけないんだよ?
まじ眠いし。霧、冷たっ……これ絶対もっと寝れたやつだろ。)
だが、リリアはそんなだるい気持ちを一切表に出さず、
外套を軽く払ってから振り返り、仲間へ向かって堂々と言い放つ。
「……砦だろうと怪物だろうと、私が斬り拓くから安心して!」
(よし、言った!
火力はマジで最強。アホみたいに最強。
だけど防御? ワン太にほとんど吸い取られてるから紙だよ紙!
一撃もらったら朝日より早く散る自信あるわ!
……まあ、とりあえず言っとけば勇者感は出るか。うん。
……勇者感“だけ”ね。)
吐息が白くほどける。
(っていうか……言っちゃった手前、もう引けないんだけどさ。
正直めちゃ眠いし、帰って布団にダイブしたい気持ちが七割なんだよ!
でも今さら「やっぱ眠い」なんて言えるわけないだろ、勇者だし!!)
(……いや、そんな勇者見たことないけど。)
眠気をごまかすみたいに軽く首を振った瞬間、
肩のバッグの中でワン太が“ぽふっ”と跳ねた。
まるで「まあ頑張れよ」とでも言うように、
ワン太が前足で“とん”と胸元を叩いてくる。
(いやお前が原因だよ!?
俺の防御力吸ってるくせに“任せろ”とか、
どの口──いやどの前足で言うんだ!!)
リリアの小声のツッコミが朝靄に消えたころ、
セラフィーがこちらを振り返り、静かに目を細め、呆れ半分で微笑んだ。
「……ほんと、あなたってブレないわね。無茶ばかりなのに」
「勇者だからね」
リリアは胸を叩いて、あっけらかんと笑った。
(出たよ“勇者だから”理論! 自分で言って俺が一番疑ってるやつ!!)
ブッくんがすかさず噛みつく。
「勇者やからってなんでも許されると思っとるんか!? 王家の菓子を胃袋に祀った罪状は消えんぞ!!
後世の歴史書に“勇者、胃袋封印管理事件”って載るんや! 黒歴史不可避や!!」
ワン太が“ぽふん”と跳ねて、その表紙にどすんと座り込んだ。
──まるで「落ち着け」と諭しているかのように。
「ぐえっ!? いだだだっ! ぬ、ぬいぐるみにまでマウント取られるとか……屈辱やぁぁ!」
セラフィーは冷静に補足した。
「……事実だから否定できないのがまた痛いわね」
「ぐっ……ぐぬぬぅぅ!」
ブッくんはワン太にしがみつきながら、墨をぽたぽた垂らしてぼやいた。
「なぁ……そもそもおかしないか? こんな死地へ向かっとるのに……なんで誰も暗ぁ〜ならんのや。
ワイの呪いのページ、全然黒インク溜まらんのやぞ……!」
セラフィーは軽く肩をすくめる。
「それは健康的でいいじゃない。呪いゼロの方が平和でしょ?」
「平和やない! 飯抜きと同じや! ワイ、もともとは“呪いの王”やったんやで!?
戦場で兵士が死ねば“恨み”を一行、将が倒れれば“血涙”を一章、積み上げてな……
そうやって黒々と分厚い魔典になってったんや!
それが今は……お前らの能天気トークで、ページ真っ白や!!……ピクニックの落書き帳やぁぁ!」
セラフィーが眉をひそめる。
「……甘味紀行、の間違いじゃない?」
「ぐわぁぁ!! 最悪や!! 呪いの王が“スイーツ本”扱いやぁぁ!!」
リリアは肩をすくめて笑った。
「でもみんなに読まれるなら、それも悪くないんじゃない?」
「ポジティブすぎるやろぉぉ!!」
(いや正直ちょっと読みたいぞ“呪いの王のスイーツ紀行”……!)
セラフィーは冷たい目をしながらも、微かに優しさをにじませて言った。
「……でも、そうして笑っていられるのも……あなたが生きている証じゃない?
呪いが溜まらなくても、ここに立っていること自体がね」
「……え、なにそれ……ちょっと沁みるやん……」
ブッくんは墨のしみをじわじわ広げながら、頁をもじもじとめくった。
ワン太が“ぽふっ”と跳ね、前足でブッくんの表紙にちょこんと座った。
──まるで「ほら、褒めてもらえたじゃん」と冷やかしているように。
「んっ!? なんやワイにまでツッコミ入れてくんのか!?」
ブッくんはさらに声をひそめる。
「……それになぁ。王様、ほんまは怒っとったんやないか?
聖ザッハを勇者に食われて……
あの笑み、裏では拳握っとるに決まっとるやろ……!」
セラフィーは無表情のまま、静かに返す。
「……あり得るわね。王の笑みは、仮面にもなるから」
「せやろ!? しかもあれ、王家専用の祭菓子やぞ!? 本来は神殿に祀るもんやぞ!?
それを勇者が丸ごと胃袋に奉納するとか、どう考えても罰当たりやろ!」
(おい!! 国家反逆フラグ、勝手に立てんな!俺が真っ先に処刑台コースだぞ!?)
ワン太がそのおなかに前足を「ぺち」と置く。
──まるで「気にすんな」とでも言っているように。
セラフィーは短く息を吐き、わずかに微笑む。
「……まあ、どんなに怒られても私が必ず守るわ。たとえ紙装甲でも」
「……っ!」
リリア──いや颯太の胸が、不意に熱くなった。
無茶ばかりしてきたのに、“守る”なんて言葉をかけられるのは……妙に胸に刺さった。
(……セラフィー……今さらっと守るって言ったよな!? 俺、火力最強なのに守られる勇者ってどういう立ち位置だよ!!)
胸の奥がざわついた、その直後──
ブッくんが絶叫した。
「ワイもうアカン! 呪いも溜まらん! 尊厳もない! 勇者の残飯担当にされる未来しか見えん!!」
「……でも、誰より騒がしく生きてるのはあんたよ」
セラフィーが淡々と告げる。
「ぐぬぬ……否定できんのが腹立つぅぅ!」
ブッくんがページをばたつかせて悔しそうにのたうつ。
(……確かに騒がしさはコイツが一番だ。
だけど、よくよく考えたら他のメンツも十分おかしくないか?)
(勇者=俺。火力だけ無敵、でも防御は豆腐。
ワン太=防御最強、しかも意思ありげに動くぬいぐるみ。
呪い本ブッくん=本来は呪い攻撃要員のはずが、実績は“スイーツ係&常時ツッコミ”。
セラフィー=全部見透かしてて一番まとも……のはず。)
(……いやどう考えても、これバランス崩壊PTだろ!!)
だが彼らはまだ知らなかった。
紅晶の砦の“本当の色”を、朝の光が隠していることを。
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