『第二話 • 8 : 王の間に響く号砲──紅晶の砦へ』

王の間に、刹那の“深い静寂”が沈んだ。

その沈黙を破ったのは、王が胸の底からゆっくり押し出した、重いひと息だった。


「……だが、安堵に浸るのはまだ早い。」


石壁がその低声を受け止め、わずかに震える。

冷えきった空気が、奥の炎棚まで細く揺れた。


「王都北方にある“紅晶の砦”。

 今回の侵攻の糸を引いた──魔王軍の将が潜んでいる。

そこは──“人が戻らぬ地”と化した。」


ざわり、と兵たちの視線が王へ集まる。

名を出されただけで、空気の膜がきしんだ。


王は続けた。

声は冷たく、それでいて深い痛みを宿している。


「……実は先日、“剛刃将グラム”とその騎士団を砦へ送った。」


その名が響いた瞬間、王の間に硬質な緊張が走る。


「帝国境で無敗。三百の魔獣を斬り伏せた“鋼の英雄”だ。」


本来なら士気が上がる名だった。

だが。


王の声が、凍てつく真実を落とす。


「……騎士団は全滅した。」


壁の装飾の陰で赤い光が低く震えた。

その揺れは、まるで“砦の影”だけが、この場へ先に忍び寄ったかのようだった。


王は目を伏せ、積み重なった疲労を吐き出すように息を落とす。


「そして──グラムは“影ひとつ”だけになって戻ってきた。」


言葉の端がかすかに震える。


「声も名も奪われ、身体は赤い結晶の靄へと溶けた。

 本人の意志かどうかも分からぬ、ただの影だ。

 ……砦の方角で、帰る場所を忘れた魂のようにゆらゆらと 漂っていた。」


沈黙が落ちた。

恐怖よりも、“理解が追いつくまでの空白”だった。


奥底から、紅晶の砦の冷たさがにじむ。

数人の兵が無意識に護符を握りしめる。

天井の高窓から差す月光さえ、どこか冷えていた。


その圧の中で――

王はゆっくりと、真正面からリリアを見据えた。


勇者という称号よりも、“ひとりの少女”として。

国王という立場よりも、“祈る人間”として。


「……勇者リリアよ。」


呼ばれた瞬間、リリアは自然と姿勢を正した。


王は深く息を吸い、その全てを託す声で告げる。


「紅晶の砦を落とし、

 魔王軍の将を討ち、

 王都に──どうか、再び平穏をもたらしてほしい。」


それは命令ではなかった。

“父の祈りに近い声”だった。


続く言葉は、静かにして避け難い真実を帯びていた。


「敵がいつ再び牙を剥くかは分からぬ。

 そして……お前たちが進む“魔王領”への結界も、あの砦にある。」


王の瞳が細められ、深い願いが滲んだ。


その想いを受けて、リリアの胸に静かに火が点る。


(……だったら迷う理由なんてひとつもないじゃん。)

(守りたい人がいて、泣かせたくない街があって、

 そこに敵がいるなら──行く。それだけ。)


セラフィーが胸へ手を当て、一歩前に出た。


「……わかりました、陛下。必ずや。」


震えはあれど、折れる色はどこにもなかった。


そして──

全ての視線が、リリアの“答え”を待つ。


リリアは夜気を含んだ扉へ目を向け、

ひと呼吸だけして、笑った。


恐れより強く。

目的より深く。

刃よりまっすぐな笑みで。


「──行くよ。“紅晶の砦”へ!!」


その声は宣言ではなく、“未来を殴り開ける号砲”だった。


リリアは腕の中のワン太を抱き直し、

いたずらめく笑みのまま言い切る。


「砦でも怪物でもなんでもいいよ。

 ぜんぶまとめて──食べ尽くしてあげる。

 だって、わたしは“勇者”だもん。」


王の間がわずかに震える。

迷いを断ち切る光が、少女の背から立ちのぼった。


ブッくんは涙目どころか頁の端まで震わせながら叫ぶ。


「世界救う勇者なんざ山ほどおるけどなぁ!?

 “理屈吹き飛ばして気迫で世界を納得させる勇者”は聞いたことないんやぁぁ!!」


床をバンバン叩きながら絶叫する。


「未来のワイ、ぜったい紙質パッサパサや!!」


「もうあかん! 胃薬とは一生の相棒や!!」


ワン太はそんな騒ぎをよそに、そっと前足でリリアの胸をとん、と叩いた。

それは力ではなく、導きに近い“温度のある仕草”だった。


セラフィーはそれを見て、泣き笑いのような小さな笑みを浮かべる。


「……ほんと、バカ。でも……そのバカさに、私も賭ける。」


月光がリリアの横顔を照らし、

その背中は小さくても、確かに“世界を明るくしていた”。


夜風が、未来をそっと押した。


誰も声にはしなかったが、

その場の全員が同じ確信を抱いていた。


――あの背中なら。

――あの勇者なら。


未来は、必ず切り開ける。


王の間に残った風がそっと揺れ、

リリアの去った扉の向こうで、

“新たな戦いの夜”が静かに息づき始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る