『第二話 • 6 : その一口が、千年の祈りをほどいた』

その瞬間。


リリアの姿が“線”になった。

踏み込みの一歩が、空気ごと溶けて消える。

世界がたった一拍だけ、置き去りになった。

視界がついてこない。

ただ甘い匂いだけが、尾を引く光のように残った。


結晶の犬オルフェスがザッハへ牙を伸ばす──その“直前”。

誰も気づけない速度で、

リリアはすっと横へ入り込み、


犬の鼻先を軽く手で押しのけた。


まるで

「ちょっと、ごめんね。これは私のだから」

と言わんばかりの、優雅で暴力的な高速処理。


(……待て俺。

 いま完全に“超高速の食欲バトル漫画主人公”みたいな動きしなかったか!?)


そしてそのまま、

ザッハトルテを両腕で抱え込み、

止まった世界の中心で──


──ガブリィィィィンッ!!!


黒曜石の表面が砕け、甘い破片が花火のように散った。

犬より先に、一口。

いや、犬に“競り勝って”の一口だった。


世界が一拍、遅れた。


リリアが《聖なるザッハトルテ》へ食らいついた瞬間、 甘味の奥で、微かな祈りが弾けた。


そして次の瞬間――甘い衝撃が爆ぜ、戦場の空気そのものが裏返る。


黒曜石のような表面がぱりんと割れ、内部から溢れ出すのは──

深淵を思わせる漆黒チョコ。

舌を焦がすほど濃密な甘酸っぱい杏ジャム。

触れた瞬間、雲のように崩れ落ちる軽やかなスポンジ。


甘味・苦味・酸味──三重の奔流が脳髄を直撃し、

味覚の宇宙が“星爆”のように広がっていく。


「……ッッッ!! うっっっまァァァァァ!!!!」


リリアは目を見開いたまま涙を滝のように溢れさせ、膝から崩れ落ち、震える指で次の一口を求めながら、なおもケーキへ渾身でかぶりつく。


(……やば……これは“美味しい”とかそういう次元じゃない。

 味が“魔法になってる”……! 身体の芯が甘さで震えてる……!)


一片を噛むたび、結晶化した甘味が光にほどけ、

その輝きがリリアの胸元へ吸い込まれていく。


その食速度は、もはや“味覚の神域”に片足を踏み入れていた。

戦士ではない。甘味の理を捻じ伏せた祈りの獣。

勇者ではなく、“甘味の真理を覗いた者”の動きだった。


やがて――


小さな音がした。


──コトン。


皿の上には、誰にも使われなかったフォークだけが転がっていた。

文明の象徴は、野生の食欲の前に敗北したのだ。


《聖なるザッハトルテ》は影ひとつ残さず、完全に消滅していた。


(……完食……!?)


リリアは仰向けになり、天を見上げた。

目を閉じれば、全味覚が金色の残光となって広がり、

胃の奥で“甘い祈り”が燈火のようにふるえている。


「……はぁ……生まれてきて……よかった……」


戦場に似つかわしくない、満足し切った救済の声だった。


(……終わったな俺……これもうグルメ漫画やろ……

 勇者職から“スイーツバトル漫画主人公”に転職してない!?)


その瞬間、砂糖細工の犬の動きがぴたりと止まり、

黒い靄がふっと消えた。


瞳に宿ったのは――子どもたちの笑顔を映す、懐かしい光。


「……この甘さ……ようやく思い出した……

 私は、本来“守る側”だったのだ……」


オルフェスの体から黒い結晶がぽろぽろと落ちていく。

まるで長い夜が、ようやく終わっていくかのように。


「魔王の呪糖は、私の“未練”を利用した毒だった。

 あの日、お前に削られた痛みを“恨み”に塗り替え……

 〈聖なるザッハトルテ〉を奪う衝動へと歪めていた……」


「ザッハは、この城を支える“甘味の心臓”。

 私は千年、その脈を守り続けてきた。」


「だが……お前に食べられたあの日は、本来なら私の“終わり”であり、

 “役目を果たした証”だったのだ」


淡い甘香が、残光のように空気へ溶けていく。


「お前が見せた“甘味を受け取る喜び”……

 その一口に宿っていた素直な幸福が、私の迷いを洗い流した。」


「甘味とは、誰かを満たし、その笑顔と共に静かに幕を閉じるもの……

 ――それこそが、私の本来の在り方だったのだ」


光の結晶を零しながら、犬は安らかな表情で目を細める。


「勇者よ……私はもう充分だ。

 千年分の使命も、あの日の未練も、すべて果たせた。」


「……ありがとう。

 “満たされた”という感覚が、ようやく……わかった」


そして、少しだけ誇らしげに尻尾を揺らす。


「どうか――次に甘味を味わう子らにも、

 その喜びが、まっすぐ届きますように……

 私の甘さは……もうお前に託した」


胸の奥で、小さく、やさしい甘音が鳴った。


──パリンッ。


砕けた結晶が虹色の飴片となり、粉雪のように舞い落ちていく。

それは、祈りのように静かで……

春の陽だまりのように温かい別れの余韻を残した。


セラフィーは剣を下ろし、胸の奥でそっと微笑む。

(……やっぱりあなたは勇者よ、リリア。どんな形であれ──世界を救ってしまうんだから)


リリアの腕の中でワン太が、小さな布の耳をぴくりと揺らした。

散る光に前足を伸ばすその仕草は、声こそないが──

去りゆく“同じ犬”への、静かな手向けだった。


(ちょ、待て……俺、

 コーヒーのついでに砂糖ひとかじりしただけで、

 千年モノの犬の未練まるごと救ってたってことかよ!?)


世界を救ったのは、勇者の剣ではなく──逆ギレで喰らった一口のケーキだった。

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