『第二話・2 : 砂糖細工の聖獣オルフェス、堕つ】

王は、その香りの微かな変化を確かに察したように、ゆるやかに顔を上げた。

炎の明滅が瞳の奥へ縫い込まれ、長い眠りの下へ封じていた記憶が、静かにゆらめく。


そして――心の底へ沈めていた真実をそっと掬うように、息をひとつ落とした。


「……もう一つ、語らねばならぬ存在がある。」


低く落ちた声音に、広間を照らす炎が揺れを止める。

まるで、次の言葉を聞き逃すまいと息を潜めるように。


「甘き封印を護り、深淵の沈黙より幾星霜の王都を見守り続けた獣がいた。

 古よりこの城に棲み、砂糖細工の結晶が脈を打つように淡い息遣いを灯した――神域の守護者だ。」


王は視線を伏せ、胸の奥の千年を両手で抱くように声を落とした。

名を呼ぶだけで、かつて守れなかった誇りがきしむように痛み――

王の横顔に、埋まらぬ傷の影がそっと差す。


「――その名こそ、〈砂糖細工の聖獣オルフェス〉。」


名が落ちた刹那、広間は“止まった”。

空気の粒が凍り、兵士たちの心臓だけが一斉に震えた。


リリアの胸の奥にも、その名がしずかに沈んでいく。

同時に――砂糖がゆっくり焦げていくような、ざらりと甘く熱いざわめきが胸内を満たした。


(……これ……どこかで、触れた……?

 いや……でも……思い出せない……)


掠めた記憶は、粉砂糖の指先みたいにそっと胸の奥をなぞり、

触れた瞬間にはもう溶けて消えていった。


王は続ける。


「白き砂糖結晶に宿る退魔の力を、賢者たちは千日の祈りによって結晶へ昇華させた。

 その果てに“命”が芽吹いた……それが、オルフェスだ。」


その声音は、誇りと悔恨と愛惜――人として抱え得るすべてを滲ませていた。

それは“王”ではなく、一頭の獣を失ったひとりの男の声だった。


「王家に仕え、数多の魔を退けた忠義の象徴。

 まさしく、この王都を支えてきた“甘味の守護神”。」


言葉を終えると、王は痛みに耐えるようにひと息震わせた。

その震えは、長年隠してきた喪失がふいに形を思い出したかのようだった。


「……あれが忽然と姿を消したのは、数年前のことだ。」

「その晩――甘味核との《共鳴》が、何の前触れもなくぷつりと途絶えた。」

「それきり、オルフェスは影のように……世界から跡形もなく消え失せた。」


王の声に、かすかな痛みが混じった。


「そして今――我らは見てしまった。

 かつて王都を護ったその牙が……魔王軍の先頭で我らへ向けられる姿を。」


沈黙が重く音を立てた。


「もはや聖獣オルフェスは守護者ではない。

 蘇ったその身は、いまや王都を裂く“甘味の災厄”となった。」


「……勇者よ。女神よ。〈砂糖細工の聖獣オルフェス〉を討ち果たしてほしい。

 あの牙が“聖なるザッハトルテ”へ届いた瞬間、王都は本当に終わる。」


「“聖なるザッハトルテ”は、千年前より脈を打ち続ける〈防御結界の核〉だ。」


「あれが喰われれば、結界は崩れ、王都は闇へ無防備にさらされる。」


「そうなれば……この王都は、魔王軍の影にひと息で呑まれるだろう。」


「……っ」


誰かの飲み込んだ息音が、広間全体に響く。


「オルフェスが……あの“聖獣”が……どうして……」

「信じられぬ……あの守護獣が……」


絶望の声は、どれも途中で力を失った。


王は静かに目を閉じ、短く息を吐いた。

その仕草ひとつで、王座の間の空気は張りつめた糸のように震える。


沈黙が、まるで石床の冷たさごと心臓を締め付けるように広がった。


息をするのも憚られるほどの緊張の中、誰も陛下の言葉の続きを待とうとはしなかった。


その時――セラフィーが胸に手を当て、静かに一歩進み出る。

冷たい空気を切り裂くように、凛とした声が高く響いた。


「……必ず、聖獣オルフェスを討ち果たします、陛下。」


その宣誓は、沈黙に沈んだ空間へ差し込む一条の光のようだった。


王は深く頷く。

「勇者たちよ。頼んだぞ。」


広間に、重く沈む運命の気配だけが満ちていった。

兵士たちの息遣いさえ揺れず、夜気が音もなく張り詰めていく。


――本来なら、その緊張が場を支配するはずだった。


しかし。


リリアの胸に最初に浮かんだのは、もっと切実で人間らしいぼやきだった。


(いやいやいやいや……!

 うわ待って心の準備ゼロ……!

 なんで即答なんですかセラフィーさん!?)


(勇者の責任は分かりますけど……俺、

 “24時間頼れる何でも屋”じゃないんですけど!?)


その横で、ブッくんがぶるぶる震えながら叫び散らした。

「ひぇぇぇえッ!? 無理無理無理!!

 ワイもうアカン!!

 “カラメルの牙”で ページの端から順番に炙られる 未来しか見えへん!!」


「てかなんで聖獣が魔王軍おるんや!!

 甘味界のプリンス枠ちゃうんかい!!

 なんでワイだけ“期間限定・焦げ砂糖味の断末魔”やねん!? 嫌やぁぁ!!」


ブッくんの絶叫が広間に反響する。


――しかし、返ってきたのは妙な静けさだけだった。

リリアは、思わず呼吸をひとつのみ込んだ。

空気が、不自然に澱んでいる。


(……え、誰も反応しないの? どした?)


リリアは思わず瞬きをし、その違和感の正体を確かめるようにそっと視線を横へずらした。


そして気付く。


そこには、場の空気から取り残されたようにぽつんと立つワン太がいた。


完全に誰の話も聞いていない。


ガラス玉の瞳は、使命でも恐怖でもなく……

ただ、丸くて甘いおやつの“形”だけを映していた。


「……ドーナツ……」

と呟き出しそうな表情。


まるで、

〈輪っかのおやつこそ世界の真理〉

と悟った“小さなゆる賢者”だった。


(……いや待て。

 なんでお前だけ“午前のおやつ会議(任意参加)”みたいな空気なの!?

 戦争とドーナツを同列に置くな!!)


そのツッコミの熱がすっと冷めるころ、

逆に胸の奥では、別の熱だけが静かに残っていた。


王座の間を出ると、夜風が回廊を静かに通り抜けた。

空気は冷たいのに、胸の奥だけがざらりと熱を帯びていく。


――“甘味の守護神”が、敵として待つ夜が始まる。


暗がりには、焦がし砂糖のような甘く苦い風が漂い、未来の匂いを確かに運んでいた。


それは甘く、冷たく――

 この夜が“始まり”にすぎないと告げる、運命そのものの匂いだった。

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