『第一話・7 : ザッハトルテ審判 ――戦斧の災、甘さを知らずして散る』
夜が、音もなく裏返った。
リリアは、斧より先にドレイク・ガルダンの“首筋の魔紋”を見ていた。
足元の灰が、かすかに宙へと舞う。
世界は、まだ斬られる前の姿で、静止していた。
その刹那、白銀の剣閃は空気ごと消えた。
「――《白聖・無垢斬》。」
誰も、剣が振られた瞬間を見ていない。
世界は“斬られた”という事実を、一拍遅れて思い出した。
音が、世界から抜け落ちる。
ドレイク・ガルダンの巨躯が、重さを取り戻したように、ゆっくりと膝を折った。
振り上げられていた戦斧は、ただの鉄へ戻り、鈍い音だけを残して地に触れた。
首筋に走るのは、一筋の白い裂け目。
魔紋が、最後の呼吸をするように淡く光り――そこで終わった。
――遅れて、空気が“裂けた音”だけを落とす。
倒れながら、彼はまだ気づいていない。
自分の“生”が、この世界からすでに剥がれ落ちていることに。
ドレイク・ガルダンは、ただ地に還った。
理解が追いつくより早く、巨躯は灰となり、炎の風へと溶けていった。
本当に――息をする音さえ、どこにもなかった。
静寂は、世界が息を止めていた証そのものだった。
だが、戦場は悟っていた。
祈りではない。
救いでもない。
ただ、“触れてはならないもの”が、ここに立っている。
リリア・ノクターン。
レベル999。
世界の理(ことわり)でさえ、目を逸らす天災。
燃える街路に、風がそっと通り抜ける。
――その“存在”を、世界が思い出した瞬間だった。
その瞬間、未来が消えた。
魔物の軍勢は、“敗北”ではなく“死”を悟った。
「ギャァッ……!」「ヒィィィ!!」
悲鳴は伝染ではなかった。
全員が、同時に“死”を思い出した。
狼型は、味方を噛み砕いてでも退こうとし、
甲殻の巨体は石壁に鈍い音を立てて体当たりしながら、出口のない逃走を試みる。
兵に似た影たちは、踏みしめた背骨の感触すら無視して互いを踏み台にしながら、
ただ“あれの前に立ちたくない”と四方へ散った。
恐怖は、呪いではない。
生き物が、生き物に触れてはならぬと悟ったときの反射だった。
統率は、一瞬で崩れた。
群れは“軍”ではなく、ただの逃げ惑う肉へと変わる。
残されたのは、砕けた戦斧と、
焼け焦げた大通りだけ。
灰が、雪のように舞い落ちる。
誰も、リリアの背に近づこうとはしなかった。
“近づく”という概念が、この場から消えていた。
足元に転がる斧を一瞥し、リリアは刃を払った。
「ザッハトルテを知らない時点で、もう終わってたんだよ。
彼は“殺す”以外、何も持っていなかった。」
「嬉しいも、苦いも、誰かと分け合う甘さも――知らなかったんだ。」
「だからやつには、生きる“明日”がなかった。」
リリアの声は震えていた。
それは憐れみでも、軽蔑でもない。
「知ろうとしなかった者」への、静かで深い怒り。
それは、かつての自分に向けた怒りでもあった。
空気がいったん、無音になった。
次の瞬間、ブッくんは紙の顔面を真っ青にして絶叫した。
「基準そこぉぉ!?
お菓子知らんだけで死刑とか、あんさんとこの法体系どうなっとんねん!!
国会で審議せぇや!!」
セラフィーは額を押さえて、乾いた笑みを漏らした。
「……お菓子で生死を決める宗教なんて、記録にも伝承にも前例がないわね。
神話でも創世記でも、そこだけページ破れてたのかしら。ねえリリア?」
ブッくんはページをバッサバッサ振りながら号泣する。
「未知の領域にワイら突っ込んでいっとるやん!!
新種宗教の創立瞬間やん!! 開祖誰や!! 主犯どこや!!」
(いやだから俺じゃねぇっつってんだろ……
そもそも俺、教祖にされた覚えないんだが!?)
「ひぃぃっ!
ワ、ワイは“モンブラン派”なんや!!
それ……セーフなんか!?
アウトなんか!?
宗派違いで異端認定されるやつなんか!?
ワイ、次の弾で焚刑やろか!!!」
セラフィーは、ため息とも苦笑ともつかない息を落とした。
「……落ち着きなさい。誰も宗教を作ってるつもりはないわ。ただ――」
そして、ごく当たり前のことのように続けた。
「まあ、リリアは、ガトーショコラ直系(本家)だから。」
「本家とかあるんかいッ!!!!」
ブッくんは崩れ落ちた。
「ケーキ界、貴族制なん……?
階級社会なん……?
ワイ庶民なん……??」
(いやほんとにな……
どこをどう歩いたら“ザッハトルテ未履修=死刑法”の世界線に入るんだよ。
俺、知らん間にスイーツ宗教のトップに即位した?
戴冠式してないんだが??)
(ていうかあいつ……
見た目だけ“濃厚深淵”ぶってたけど……
あんこの入ってないどら焼きみたいだったんだよな。
……空っぽなのに、濃い顔してた。それが一番、腹立つ。)
その呟きは、誰にも届かなかった。
風さえ、触れることをためらっていた。
次の瞬間、人々は息を呑み——そして、歓声が爆ぜる。
「敵の副将ドレイク・ガルダンが……討たれたぞ!」
「生き延びた……!」
兵は剣を掲げて天に祈り、子どもはすすり泣きながらも「女神さま!」と叫んだ。
血に塗れた母は子を抱き、嗚咽しながら膝をつく。
すすけた顔に灯った光は、絶望の夜をほんの少しだけ照らす炎になった。
その場にいた誰もが、理解していた。
畏れでも、崇拝でもない。
ただ――そうであるとしか言えなかった。
名付けるほうが、遅かった。
リリア・ノクターンは、“女神”としてそこに在った。
リリアは剣を下ろした。刃に残った光が、夜へと吸い込まれていく。
炎の音さえ、彼女の前では遠かった。
誰も、息をすることすら忘れていた。
(……いやほんとにさ。
今の、ただの“ザッハトルテ未履修チェック”で処刑判定出ただけなんだよな……?)
(俺、知らん間に“ケーキで世界を統治する側”になってない? )
(宗教ビジネスって……儲かるのかな……いや違う違う違う!!
俺は教祖じゃない!! 俺はただの一般人だ!!!)
──王城前の戦いは終わった。
だが、これが終焉ではなく――“夜の前章”にすぎなかった。
世界はまだ知らない。
リリア・ノクターンという名に宿る、“本当の夜”を。
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