『第一話・6 : ザッハトルテは戦場にない』

燃え落ちた街路の果て。

城門へと続く最後の大通りを、リリアたちはまっすぐ進んだ。


城門は、もはや限界だった。


炎の向こうから、黒い獣影が滲み出る。

数百。……いや、数千。

もはや“数えられるもの”ではなく、押し寄せてくる黒そのもの。


血と煤の匂いだけが“生”を主張し、

影そのものは、もう生者とも死骸とも呼べない“残り”だった。


先頭で牙を剥く狼型。

その背後には、甲殻を軋ませる巨体。

そしてその隙間を、兵の亡骸が四肢で地を掴み、城門へ、体ごと叩きつける。

木と鉄が悲鳴を上げ、蝶番が涙声で軋んだ。


(……やばい。

 これは“戦い”じゃない。押し止めてるだけの墓標だ。)


そのとき、裂けかけた門の向こうから、兵士の声が飛んだ。


「押さえろ……! まだだ、閉じていろッ!!」


扉に全身をぶつける衝撃。

踏ん張る靴底が石を削る音。

歯を噛み締めるたびに、喉から漏れる震えた呼吸。


血に濡れた指は、爪が剥がれても城門を離さない。

それだけが、まだ生を求める証だった。


その生への執念ごと踏み躙るかのように、

魔物の群れが――ざわり、と一斉に揺れた。

無数の目が、“城門そのもの”を食う獲物として見定めていた。


――群れの中央が、ゆっくりと割れる。


そして、炎に揺れる黒煙が押しのけられ、

その奥から、ひとつの巨影が姿を現した。


焼け焦げた獣皮。背に突き立つ骨。

ただ壊すためだけに踏みしめる足音が、石畳を低く震わせる。


リリアは、足を止めた。

喉が、ひとりでに鳴る。


肩のバッグの中で、ワン太は――息をひそめた。


その瞬間、炎の揺らぎがふっと静まった。

熱そのものが、ひとつ呼吸を止めたように。


「……我が名は、魔王第五軍副将――ドレイク・ガルダン。」


「千の兵を屠り、血煙を糧として進軍する“戦斧の災”。」


声が、火よりも先に空気を支配した。

空気が重く沈み、耳の奥がじんと痺れる。


(コイツ……自分で“戦斧の災”名乗るタイプかよ。

 盛り気味にもほどがあるだろ。)


──そのとき。


視界の端で、青い矩形が、すっと立ち上がった。


【NAME:ドレイク・ガルダン(魔王第五軍副将)】

【Lv:28】

【属性:魔/鋼】

【耐性:火-◎ 氷-△ 雷-△】

【攻撃:戦斧乱舞/咆哮(恐怖付与)/大地割り】

【弱点部位:観測不能(※情報未解析)】


(……おい。

 “観測不能”って何だよ。

 そこが一番欲しい情報だろ。)


(てか誰だよ、このウィンドウ出してんの。

 毎回、ここだけ親切で、逆に不安なんだよ……。)


ドレイク・ガルダンは戦斧を肩に担ぎ、血走った眼をぎらりと光らせた。


「……ここから先は地獄だ。逃げるなら――今のうちだぞ。」


その声音は重かった。

だが――その重さは、前には向いていなかった。


本来なら前へ叩きつけるはずの圧が、わずかに“後ろ”へ滲んでいる。

踏み込む呼吸ではない。踏みとどまる呼吸だ。


リリアは、ただまっすぐにドレイク・ガルダンを見た。


炎に照らされる巨体は、わずかに揺れている。

重いはずの戦斧を支える肩が――ほんの少しだけ、逃げていた。


(……前に出る覚悟がない。)


その“事実”は、誰の言葉でもなく、戦場そのものが告げていた。


もう、待つ時間は終わった。

リリアは、一歩、前へ出た。

視界の輪郭が、ひとつだけ鋭く定まる。


――ほんの一瞬、群れのざわめきが止まった。

胸の奥で、ひとつだけ“音”が終わる。


――もう、十分だった。


「ねえ、ひとつだけ聞きたいの」


ドレイク・ガルダンが牙を剥く。

「なんだ……?」


リリアは、かすかに微笑んだ。

火の粉が風に散り、焦げた匂いが夜を染める。


「……“ザッハトルテ”って、知ってる?」


ドレイク・ガルダンの動きが、わずかに止まる。

炎の赤が、獣の横顔を鈍く照らした。


「ザッ……は? 何だそれは。」


ドレイクは、ほんの一瞬、言葉を探した。

だが出てきたのは、空白だった。


「……知らん。」


その声には、“世界に触れた音”がなかった。


拒絶ではない。嘲りでもない。

ただ、世界に触れるという行為そのものを最初から捨てていた者の音。


本物に触れず、

なにひとつ自分で選ばず、

与えられた枠の中だけで“生きさせられてきた”者の声だった。


「知らないのね。……なら、もう、あなたに用はないわ。」


ぱち、と。燃え残った梁が、ひとつだけ崩れ落ちる。

それが、合図だった。


背後で、空気がひとつ沈んだ。


「……あ、これ終わるやつや。」


ブッくんの声だった。

声というより、現実がひとつ定まった音だった。


セラフィーは、ただ静かに目を伏せた。

――この世界で、彼女だけが知っている。

リリアが“甘さ”を捨てたとき、もう誰も止められないことを。


リリアの指先が、柄に触れた。


――空気が止まる。


ドレイク・ガルダンは遅れて知る。

自分は、一度も“本物”を味わったことがなかったのだと。


炎も風も、ただ従った。


震えたのは世界のほうだった。

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